薩摩の音楽・芸能

薩摩の音楽・芸能

薩摩の音楽(楽器)として真っ先に名前が挙がるのは薩摩琵琶です。薩摩琵琶は、祈祷僧として薩摩に下向し、伊作に常楽院を開いた宝山検校の伝えたものが起りであるとされています。中世に伊作島津家の忠良と盲僧淵脇寿長院によって、琵琶楽の改良工夫がなされ、士風の鼓舞に用いられるようになりました。これは、縦笛の天吹(てんぷく)とともに、武士の教養の一つとなっています。

 また、島津家の記録には数多くの能狂言の上演記録が残されています。鹿児島城下には鶴丸城内の能舞台の他、春日町や柳町、天神馬場や薬師町に能舞台があり、柏家・中西家・小幡家という代々能役者として仕える家もありました。薩摩の能は、上流階級だけではなく、一般庶民も身近なものとして接していたようです。

薩摩琵琶

鹿児島に伝わる琵琶。薩摩琵琶は硬い胴と扇子型の撥を特徴とする。「中興の祖」と呼ばれた島津忠良と薩摩琵琶の関係は深く、自ら琵琶曲「蓬莱山」を作曲したという。江戸時代後期になると、演奏者によって変化が生まれ、座頭風・士風・町風などに分派する。明治期になると、薩摩藩出身者が明治政府に大勢入ったことで薩摩琵琶が全国的に知られるようになる。明治天皇も薩摩琵琶を愛したという。

天吹

鹿児島に伝わる縦笛。長さは約30センチメートルで穴は5つ。歌口も独特な作りとなっている。島津家の武将たちが愛用したといわれる。昭和末期以降、保存運動が盛り上がる。

能楽

鎌倉時代末から室町時代にかけて完成した古典芸能。南九州では16世紀後半に一王太夫などが能役者として演じていることが『上井覚兼日記』に見える。島津家久は能を嗜んでおり、実父義弘から能楽にふけることをたしなめられている。
江戸時代には家久が京都より招いた中西秀長が能役者として活躍し、寛永7(1630)年の大御所徳川秀忠・将軍徳川家光の江戸薩摩藩邸御成(おなり)の際に能を演じている。中西家は代々島津氏に仕え能楽に携わった。鹿児島城下には能舞台がいくつも存在していた。藩主では島津重豪が能を好んでいたことが知られている。

島津家が育んだ文化

大名である島津家は、地位にふさわしい官職・位、教養を身につけることが必要だと考え、都の貴族や文化人との関係強化、文化向上に尽力しました。重臣たちもこれに倣い、競って教養を身につけようとしたため、各地で文化が花開くことになりました。

島津家が育んだ文化

大名である島津家は、地位にふさわしい官職・位、教養を身につけることが必要だと考え、都の貴族や文化人との関係強化、文化向上に尽力しました。重臣たちもこれに倣い、競って教養を身につけようとしたため、各地で文化が花開くことになりました。