薩摩・島津家の歴史

薩摩・島津家の歴史

島津家の初代忠久(ただひさ)は、鎌倉時代のはじめ、文治元(1185)年に源頼朝から南九州最大の荘園「島津荘」の下司職(げすしき)、次いで地頭職(じとうしき)に任命されました。薩摩、大隅、日向の南九州三ヶ国の守護職に任じられた島津家は、鎌倉時代から明治に至るまで、おおよそ700年間南九州を治めました。

ここでは、島津家の歩みを年表で振り返ってみます。

1026
尚古集成館
島津荘(しまづのしょう)成立

日本最大の荘園。万寿年間(1024~1028)に太宰府の役人平季基(たいらのすえもと)によって関白藤原頼通(よりみち)に寄進され成立したという。日向国諸県郡(もろかたぐん)の島津の地(現、宮崎県都城市郡元付近)を中心としたことから島津荘と名付けられた。荘園の範囲は次第に薩摩国・大隅国へと広がっていく。

元暦2(1185)年に源頼朝と近衛家から惟宗忠久が島津荘の下司職(げししき・げすしき)に任命される。後に忠久は地頭職に任命されるが、島津荘は摂関家の1つ近衛家が本家として支配しており、近衛家に仕えていた忠久が荘園の管理を任されるのは自然な流れであった。本家近衛家の下には領家として興福寺一乗院が存在していた。建仁3(1203)年の比企氏の乱に連座して忠久は島津荘地頭職を没収されるも、のちに薩摩方のみ地頭職が返される。大隅・日向の地頭職は幕府執権の北条氏一族が鎌倉幕府滅亡まで保有し続ける。

1086
白河院政開始
1096
第1回十字軍
1173
平清盛、大輪田泊拡張
1179
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初代 島津 忠久(しまづ ただひさ)
島津忠久

治承3(1179)年~嘉禄3(1227)年

島津家初代当主。母は比企(ひき)氏娘、比企能員(よしかず)の妹の丹後局、頼朝落胤伝説では父は源頼朝といわれる。丹後局の嫁ぎ先の惟宗廣言(これむねひろこと)の姓を得た忠久は、頼朝によって現在の鹿児島・宮崎両県にあたる薩摩・大隅・日向三国守護職任官および島津荘地頭職に任命され、島津を姓とした。他にも越前国守護職(現福井県)などにも任命された。奥州藤原氏の平定に従軍、頼朝の上洛の際にも随っている。忠久は家臣を南九州に派遣し、自身は鎌倉で生活していた。

母の実家比企氏が執権北条氏と対立、建仁3(1203)年、比企氏の乱で比企氏が滅亡すると、縁者である忠久は三国守護職・島津荘地頭職等を没収された。後に島津荘薩摩方地頭職と薩摩国守護は返還された。嘉禄3(1227)年、薩摩国地頭守護職を忠時に譲り49歳で亡くなる。

1185
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忠久、島津荘地頭職任命
1189
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奥州出兵に従軍
1192
源頼朝、征夷大将軍就任
1197
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忠久、薩摩・大隅・日向国守護職任命

京都から鎌倉にくだり、御家人となった惟宗忠久は源頼朝から薩摩・大隅・日向三ヶ国の守護職と島津荘地頭職に任命された。日本最大の荘園、島津荘は薩摩・大隅・日向にまたがる広大な範囲であり、そこを治めるのが近衛家であったため、近衛家と関係の深い忠久が任命されたという。忠久は荘園の名を取り島津氏を名乗るようになる。

建仁3(1203)年に比企氏の乱で比企氏が滅亡すると、母の実家であることから連座し、三国守護職・島津荘地頭職を没収される。のちに薩摩国守護職と島津荘薩摩方地頭職は返されるものの、三国守護に返り咲くには長い年月が必要であった。

1202
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二代 島津 忠時(しまづ ただとき)
二代 島津 忠時(しまづ ただとき)

建仁2(1202)年~文永9(1272)年

島津家二代当主。父は初代忠久。承久3(1221)年、承久の乱において忠時は北条義時を中心とする鎌倉方として後鳥羽上皇ら京方と戦い、宇治川の合戦で奮闘した。嘉禄3(1227)年、父・忠久より薩摩国地頭・守護職等を譲り受け、家督を相続する。鎌倉にて長年将軍に仕え、文永9(1272)年、逝去。享年71歳。

1203
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比企(ひき)氏の乱に連座、諸職没収

比企能員は源頼朝の乳母比企尼の養子であり、島津忠久の母丹後局の兄であった。頼朝の挙兵時以来、平氏追討のため西国に赴く。頼朝の信任が厚く、娘は2代将軍源頼家(頼朝の子)の妻となっている。

頼朝没後、北条氏を凌ぐ勢いとなった比企氏を恐れ、執権北条時政(ときまさ)は頼家重病の時期に比企氏の権力を削ぐ計画を立てる。これに激怒した能員が建仁3(1203)年に頼家とともに時政追討を行おうとするが、逆に能員は時政によって謀殺される。比企氏一族は北条氏の追討軍によって滅亡し、比企氏の縁戚・一味の中には多くの逮捕者が出た。島津忠久は縁者のため、薩摩・大隅・日向の三国守護職等を没収されてしまうことになる。

1205
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薩摩国守護職復帰
1206
チンギス・ハーン、皇帝即位
1221
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承久の乱で忠時、幕府方について戦う
1225
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三代 島津 久経(しまづ ひさつね)
三代 島津 久経(しまづ ひさつね)

嘉禄元(1225)年~弘安7(1284)年

島津家3代当主。父は2代忠時。文永11(1274)年、元の大軍が北部九州に襲来した(文永の役)。元軍退去後、鎌倉幕府は西国に所領を持つ御家人たちに九州防衛を命じ、久経は筑前国筥崎(現福岡県福岡市東区)で異国警固に従事し防御用の石塁(せきるい)建設などにあたった。弘安4(1281)年の弘安の役で奮戦。島津勢奮戦の様子は『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』に描かれている。弘安7(1284)年、筥崎において逝去。享年60歳。

1232
御成敗式目制定
1241
ワールシュタットの戦い(モンゴル征西)
1251
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四代 島津 忠宗(しまづ ただむね)
四代 島津 忠宗(しまづ ただむね)

建長3(1251)年~正中2(1325)年

島津家4代当主。父は3代久経。元軍が九州北部に襲来した弘安の役の際に父と共に筑前国筥崎(現福岡県福岡市東区)に出陣する。和歌を嗜み、「新後撰和歌集(しんごせんわかしゅう、勅撰和歌集の1つ)」に2首、「続千載和歌集(ぞくせんざいわかしゅう)」に1首収められている。正中2(1325)年、逝去。享年75歳。

1269
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五代 島津 貞久(しまづ さだひさ)
五代 島津 貞久(しまづ さだひさ)

文永6(1269)年~貞治2(1363)年

島津家5代当主。父は4代忠宗。元弘3(1333)年、後醍醐天皇に味方した足利高氏(尊氏)の催促に応じ、大友・少弐(しょうに)氏らとともに鎌倉幕府に反旗を翻し、幕府の拠点であった太宰府を攻める。この恩賞として大隅・日向守護職が与えられ、初代忠久以来約120年ぶりに三国守護職を回復した。
尊氏が後醍醐天皇のもとから離反するとこれに協力、後醍醐天皇の南朝方についた禰寝(ねじめ)氏・谷山氏・伊集院氏らと対立する。暦応4(1341)年には南朝方の拠点、東福寺城(現鹿児島市清水町)を攻略、息子氏久を城主とし鹿児島に進出した。しかし、南朝方が後醍醐天皇の子、懐良(かねよし)親王を谷山に迎え勢力拡大を図ると、南朝方に降った。その後、北朝方に復すが、観応の擾乱(じょうらん)で足利方が尊氏方とその弟直義(ただよし)方に二分すると、尊氏方として直義方とも戦火を交えるようになる。貞治2(1363)年逝去。享年95歳。嫡男宗久が早世したため、貞久の死後、師久・氏久兄弟は守護職を分割して相続する。

1271
フビライ・ハーン、国号を元に改める
1274
文永の役
1275
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久経、筑前国筥崎(はこざき)に防御用の石塁を建設
1284
尚古集成館
弘安の役
尚古集成館
南九州に下向

島津氏は鎌倉に住み将軍に仕えていたため、現地は守護代を派遣して代わりに統治させていた。その島津氏が九州に下向するきっかけとなったのが元寇である。3代久経は筑前国筥崎(現、福岡市東区箱崎)の防備を任され、現地に赴き薩摩国の御家人らを統率して警護にあたった。久経は晩年に浄光明寺を鹿児島に造立し、筥崎にて没した。久経の子忠宗は父とともに従軍していたが、元寇の後に薩摩に下向したものと考えられる。以後、島津氏は代々南九州に常住し、発展していくのである。

1299
マルコ・ポーロ『東方見聞録』出版
1325
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六代 島津 師久(しまづ もろひさ)
六代 島津 師久(しまづ もろひさ)

正中2(1325)年~永和2(1375)年

島津家6代当主、総州家(そうしゅうけ)初代。父は5代貞久。貞久は貞治2(1363)年、三国守護職のうち薩摩国守護職を師久に、大隅国守護職を氏久に譲り渡した。師久とその子孫の多くが上総介(かずさのすけ)と名乗ったため、師久の系統は総州家と呼ばれることになる。弟氏久とともに6代当主と数えられている。

川内の碇山城(現、薩摩川内市天辰町碇山)を拠点に、北朝・尊氏方として、北朝・直義方や南朝方と戦う。永和2(天授5、1375)年、逝去。享年52歳。

1328
尚古集成館
六代 島津 氏久(しまづ うじひさ)
六代 島津 氏久(しまづ うじひさ)

嘉暦3(1328)年~嘉慶元(1387)年

島津家6代当主、奥州家(おうしゅうけ)の祖。父の貞久は貞治2(1363)年、三国守護職のうち薩摩国守護職を師久に、大隅国守護職をその弟氏久に譲り渡した。氏久とその子孫が代々陸奥守(むつのかみ)と名乗ったため、氏久の系統は奥州家と呼ばれることになる。

北朝方(足利方)として、九州各地を転戦した。観応の擾乱(じょうらん)で足利方が2分すると、尊氏方としてその弟の直義(ただよし)方とも戦火を交えるようになり、一時は南朝方と手を組んだ。永和元(天授5、1375)年、南朝方の討伐のため肥後水島(現熊本県菊池市七城町)に赴いた際、氏久が説得して参陣した少弐冬資(しょうにふゆすけ)が味方の九州探題今川了俊(りょうしゅん)によって暗殺されると、これに激怒し、甥の伊久とともに南朝方となる。このため翌年に幕府によって大隅国守護職が没収された。

氏久は海外交易に関心を示し、応安7(1374)年には明に通商を求める使者を派遣している。 また、暦応4(1341)年、父が攻略した鹿児島東福寺城(現鹿児島市清水町)に居を構え、島津家で初めて鹿児島を拠点とした。のち大姶良城(現鹿屋市大姶良町)・志布志城(現、志布志市志布志町)に居を移す。嘉慶元(1387)年、60歳で逝去。

1333
鎌倉幕府滅亡
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貞久、大宰府を攻め落とす
尚古集成館
大隅・日向両国守護職復帰
1337
室町幕府成立
1341
尚古集成館
入麑、貞久が東福寺(とうふくじ)城を攻め落とす

南北朝期の暦応4(1341)年、南朝方の肝付氏らが立てこもった鹿児島の東福寺城を、北朝方の島津貞久や禰寝(ねじめ)氏が攻め落とした。貞和3(1347)年には南朝方の紀伊国(現、和歌山県)の熊野水軍や中国・四国の水軍が襲撃したが、貞久は撃退に成功している。その後も南北朝の対立が同地域で繰り広げたため、貞久は息子の氏久に当城を守らせた。これが島津氏の鹿児島入りの最初である。氏久はのちに大姶良城・志布志城へと居城を移している。

氏久の子、元久は東福寺城が手狭であることを理由に本拠地として隣の山に城を築いた。清水城である。麓には「清水屋形」と呼ばれる施設を建築し、大規模な城となった。以後、居城は御内・鹿児島城(鶴丸城)と移るが、鹿児島は500年に渡って島津氏の政治中枢となり、現在まで南九州の中核であり続けるのである。

1342
尚古集成館
征西将軍宮懐良親王、谷山を拠点とする

南北朝期以後、南九州は混乱を極めた。島津総州家・奥州家は足利尊氏の北朝につくも、肝付氏や谷山氏・伊集院氏などは後醍醐天皇の南朝方となって対立した。後には北朝が尊氏と弟直義(ただよし)の間で分かれさらに混迷を深める。尊氏派が一時南朝に降った時には島津本家も南朝に属している。また、南朝の征西将軍宮懐良親王が薩摩国谷山に下向してくると、南朝は勢力を強め、建徳2(応安4、1371)年にも島津氏は南朝に降った。

その後、北朝方に復し、九州探題今川貞世(了俊)とともに南朝方と戦うも、水島の変で了俊の背信行為に激怒して袂を分かつ。このため、薩摩国・大隅の両守護職は了俊によって一時奪われた。了俊との対立は、応永2(1395)年了俊が九州探題を罷免されるまで続いた。奥州家は大隅国のみならず鹿児島郡を基盤として徐々に薩摩国にも支配を及ぼしてくる。やがて総州家と奥州家は対立、総州家は従来の反総州家勢力と手を組み、奥州家と戦ったが敗北、奥州家が両国守護職を兼帯することとなる。

1347
尚古集成館
七代 島津 伊久(しまづ これひさ)
七代 島津 伊久(しまづ これひさ)

貞和3(1347)年~応永14(1407)年

島津家6代当主である師久の長男。総州家2代。元久とともに島津家7代当主と数えられることもある。父の跡を継ぎ薩摩国守護職となり、叔父氏久とともに南九州を治める。北朝方の武将であったが、永和元(天授5、1375)年、肥後国水島(現熊本県菊池市七城町)において九州探題今川了俊(りょうしゅん)が少弐冬資(しょうにふゆすけ)を暗殺すると、冬資を了俊のもとに誘った氏久とともにこれに反発して南朝方となる。このため幕府によって薩摩国守護職が没収され、了俊らと戦うことになった。 明徳4(1393)年、子の守久と不和の際、元久が両者の関係を収束させたことから元久へ総州家の家督と相伝物を与えたという。のちに元久が総州家縁の夫人と養子久照(伊久の子)を離縁したことを機に奥州家の元久と関係悪化、渋谷一族や肥後国(現熊本県)の相良氏と手を組んで元久と戦った。応永14(1407)、死去。享年61歳。

1348
西欧でペスト大流行
1363
尚古集成館
総州家と奥州家に分裂

5代貞久は後醍醐天皇・足利尊氏の催促に応じて鎮西探題北条英時を攻め滅ぼす。その恩賞として大隅国・日向国の両守護職が与えられた。のちに日向国守護は失い、薩摩・大隅2ヶ国の守護となる。貞久の嫡子は宗久であったが、暦応3(1340)年早世したため、貞久は師久に薩摩国守護を、氏久に大隅国守護を分割して譲った。貞久一族は上総介を名乗ったため総州家と呼ばれ、氏久一族は陸奥守を名乗ったため奥州家と呼ばれるようになる。こうして島津本家は2つに分かれた。師久・氏久兄弟は協力して南九州を支配するも、彼らの子どもの代になって徐々に関係が悪化することになる。

尚古集成館
七代 島津 元久(しまづ もとひさ)
七代 島津 元久(しまづ もとひさ)

貞治2(1363)年~応永18(1411)年

島津家7代当主(奥州家)。父は6代氏久。父氏久とともに九州探題今川了俊(りょうしゅん)と対立し続けた。明徳4(1393)年総州家(そうしゅうけ)の伊久・守久親子が不和の際、両者の関係を収束させたことから伊久から総州家の家督を得る。応永7年、元久は総州家縁の夫人と養子久照(ひさてる、伊久の子)を離縁し、総州家との関係が悪化、両家は戦火を交えるようになった。総州家を圧倒し、のちに大隅国・日向国守護職に加え、総州家の薩摩国守護職も手にする。

海外交易に力を注ぎ、応永17(1410)年、上洛して室町幕府将軍足利義持(よしもち)に謁見した際、京都の人々に多くの唐物を献上し驚かせた。嘉慶元(1387)年、清水城(現鹿児島市稲荷町清水中学校)を築城、城下町鹿児島の基礎を築いた。応永元(1394)年には石屋真梁を招いて福昌寺を建立、島津本家の菩提寺とした。応永18(1411)年、49歳で逝去。

1368
明建国
1374
尚古集成館
氏久、明に使者を派遣
1375
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八代 島津 久豊(しまづ ひさとよ)
八代 島津 久豊(しまづ ひさとよ)

永和元(1375)年~応永32(1425)年

島津家8代当主。父は6代氏久。日向国穆佐(むかさ)城(現、宮崎市高岡町)を拠点に兄元久の領国経営を補佐していたが、応永18(1411)年元久が急逝、元久唯一の男子が出家していたため、鹿児島に戻り本家の家督を継承した。元久の舅の一族である伊集院頼久が反発し、総州家などと手を組んで久豊に反旗を翻した。応永20(1413)年には菱刈(現伊佐市)に出撃した虚を突かれ、伊集院勢が鹿児島清水城(現鹿児島市稲荷町清水中学校)を急襲、駆け戻って伊集院勢を撃破した。

応永24(1417)年総州家の久世(ひさよ、伊久の孫)を自刃に追い込み、頼久を降伏させた。応永28(1421)年には忠朝(ただとも、伊久子)を降し、翌年守久(もりひさ、伊久子・久世父)を肥前に追い総州家の勢力を一掃した。応永32(1425)年、51歳で逝去

1376
尚古集成館
北朝から離反し、守護職没収

南北朝期以後、南九州は混乱を極めた。島津総州家・奥州家は足利尊氏の北朝につくも、肝付氏や谷山氏・伊集院氏などは後醍醐天皇の南朝方となって対立した。後には北朝が尊氏と弟直義(ただよし)の間で分かれさらに混迷を深める。尊氏派が一時南朝に降った時には島津本家も南朝に属している。また、南朝の征西将軍宮懐良親王が薩摩国谷山に下向してくると、南朝は勢力を強め、建徳2(応安4、1371)年にも島津氏は南朝に降った。

その後、北朝方に復し、九州探題今川貞世(了俊)とともに南朝方と戦うも、水島の変で了俊の背信行為に激怒して袂を分かつ。このため、薩摩国・大隅の両守護職は了俊によって一時奪われた。了俊との対立は、応永2(1395)年了俊が九州探題を罷免されるまで続いた。奥州家は大隅国のみならず鹿児島郡を基盤として徐々に薩摩国にも支配を及ぼしてくる。やがて総州家と奥州家は対立、総州家は従来の反総州家勢力と手を組み、奥州家と戦ったが敗北、奥州家が両国守護職を兼帯することとなる。

1387
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清水城築城
1392
南北朝統一
李氏朝鮮建国
1393
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奥州家による家督統一

5代貞久は後醍醐天皇・足利尊氏の催促に応じて鎮西探題北条英時を攻め滅ぼす。その恩賞として大隅国・日向国の両守護職が与えられた。のちに日向国守護は失い、薩摩・大隅2ヶ国の守護となる。貞久の嫡子は宗久であったが、暦応3(1340)年早世したため、貞久は師久に薩摩国守護を、氏久に大隅国守護を分割して譲った。貞久一族は上総介を名乗ったため総州家と呼ばれ、氏久一族は陸奥守を名乗ったため奥州家と呼ばれるようになる。こうして島津本家は2つに分かれた。師久・氏久兄弟は協力して南九州を支配するも、彼らの子どもの代になって徐々に関係が悪化することになる。

1394
尚古集成館
福昌寺(ふくしょうじ)創建

鹿児島市池之上町に寺跡が残る曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院。応永元(1394)年に島津元久によって創建されたもので、開山は石屋真梁(せきおくしんりょう)。能登国(現、石川県)にあった大本山総持寺の末寺であり、島津本家の菩提寺。島津家の保護を受け、江戸時代には藩内で最大の寺院となり、最盛期には1500名以上の僧侶が修行していたという。藩内の曹洞宗寺院のほぼすべてが末寺であり、藩外にも西日本を中心に散在する。周防国(現、山口県)にある国宝・五重塔で有名な瑠璃光寺(るりこうじ)も末寺であった。明治2(1869)年に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動によって廃寺となる。

6代島津師久(もろひさ)から28代斉彬までの歴代当主とその夫人の墓をはじめ、開山石屋真梁やザビエルと交流のあった忍室文勝(にんしつぶんしょう)ら歴代住持の墓などが残されている。寺域の多くは玉龍中学校・高校となっている。

1401
勘合貿易開始
1403
尚古集成館
九代 島津 忠国(しまづ ただくに)
九代 島津 忠国(しまづ ただくに)

応永10(1403)年~文明2(1470)年

島津家9代当主。父は久豊。日向国穆佐(むかさ)城(現、宮崎市高岡町小山田)で誕生。永享2(1430)年、総州家の島津久林(ひさもり)を日向徳満城(現宮崎県えびの市東川北)で自刃に追い込み、総州家を断絶に追い込んだ。将軍足利義教との家督争いに敗れた大覚寺義昭(だいかくじぎしょう)が日向国福島院(現宮崎県串間市)に逃れてきた際、幕府から義昭討伐の命令を受ける。嘉吉元(1441)年、義昭を自害させるが、この褒美として幕府に琉球国支配を認められた、という伝説がのちに生まれた。

一方、領国内では禰寝(ねじめ)氏・肝付氏らとの対立が続いた。また、弟用久(もちひさ、薩州家島津氏の祖)を守護代として起用したことから用久の勢力が拡大し、両者は対立することとなる。子立久とも不和になり、加世田へ移居、のち坊津から琉球に渡ろうとしたといわれる。文明2(1470)年、68歳で逝去。

1405
鄭和(ていわ)、第1次航海へ
1410
尚古集成館
元久、京都で将軍義持に謁見、唐物(貿易品)を献上
1430
尚古集成館
総州家断絶
1432
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十代 島津 立久(しまづ たつひさ)
十代 島津 立久(しまづ たつひさ)

永享4(1432)年~文明6(1474)年

島津家10代当主。父は忠国。文明2(1470)年家督継承。立久の当主在任期間はわずか4年であったが、それ以前より父に代わって市来氏を討伐するなど働きをみせている。父忠国の専制を諭し、長禄3(1459)年頃忠国は加世田へと移居した。この時期に琉球国王尚氏(しょうし)との贈答のやりとりを行うなど琉球との交流が見られるようになり、文明3(1471)年には幕府より琉球へ渡航する船の警護・取締りを命じられた。文明6(1474)年、逝去。享年43歳。

1441
尚古集成館
6代将軍足利義教の弟、 大覚寺義昭を追討
1461
尚古集成館
琉球国王、立久に物品贈与(琉球王国との交流の初見)
1463
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十一代 島津 忠昌(しまづ ただまさ)
十一代 島津 忠昌(しまづ ただまさ)

寛正4(1463)年~永正5(1508)年

島津家11代当主。10代当主であった父立久の逝去により12歳で家督継承。当主時期は一族の島津国久らの反乱や領国内の対立が広がり、「国中大乱」と言われた。幕府より琉球へ朝貢船(ちょうこうせん、琉球からの献上物を運んだ船)の催促するよう言われ、文明13(1481)年には琉球船が薩摩に来航している。大隅国の肝付兼久(かねひさ)の討伐のために新納忠武らとともに戦うも失敗、争乱を憂いて永正5(1508)年に清水城で自殺する。死に臨み、西行法師の辞世の句「願はくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」という和歌を吟じたという。享年46歳。領国内の学問振興に力を注ぎ、文明10(1478)年に桂庵玄樹を招き、朱子学を広め、薩南学派の基礎を築いた。

1478
尚古集成館
桂庵玄樹来鹿

朱子学の一派。薩南学派の祖である桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)は明(中国)で儒学を学び、文明10(1478)年に島津忠昌の招きに応じて薩摩国を訪れた。彼は儒学の書の注釈本『大学章句』を刊行し、四書に独自の訓点を施した。彼の教えは領国に広まり、島津忠良なども薩南学派の影響を受ける。また、16世紀から17世紀にかけて活躍した文之玄昌(ぶんしげんしょう)は島津義久・義弘・家久の政治・外交顧問として活躍する。その弟子泊如竹(とまりじょちく)は江戸・琉球で薩南学派を広め、藩外でも知られるようになった。

現在の訓点の元を生み出した藤原惺窩(せいか)は薩摩国山川で薩南学派の訓点を学び、それを元に訓点を編み出したと言われている。

1489
尚古集成館
十二代 島津 忠治(しまづ ただはる)
十二代 島津 忠治(しまづ ただはる)

延徳元(1489)年~永正12(1515)年

島津家12代当主。父は11代忠昌。永正5(1508)年に家督を相続し、琉球国へ友好関係と貿易統制を琉球国王尚真(しょうしん)に求めている。一方で領国中では内乱の最中であり、永正12(1515)年吉田攻めの最中、鹿児島の清水城にて在任期間7年で薨去。享年27歳。

1492
コロンブス、アメリカ到着
1497
尚古集成館
十三代 島津 忠陸(しまづ ただたか)
十三代 島津 忠陸(しまづ ただたか)

明応6(1497)年~永正16(1519)年

島津家13代当主。父は11代忠昌。永正12(1515)年の兄忠治の死後、家督を相続。翌年、備中国(現、岡山)より三宅国秀(くにひで)が琉球を攻め入ろうとした際、室町幕府将軍足利義稙(よしたね)の命令を受け坊津において討伐したという(異説あり)。また、兄の遺志を継ぎ吉田氏と戦い、同14年吉田氏を降す。しかし、永正16(1519)年、在任期間わずか5年で逝去。享年23歳。

1498
ヴァスコ・ダ・ガマ、 インド航路開拓
1503
尚古集成館
十四代 島津 勝久(しまづ かつひさ)
十四代 島津 勝久(しまづ かつひさ)

文亀3(1503)年~天正元(1573)

島津家14代当主。父は忠昌。はじめは頴娃(えい)氏へ養子に出されるも、永正16(1519)年、早世した2人の兄の跡を継ぎ家督を相続。当時の内乱状況を収めることができず、大永6(1526)年(翌年という説もあり)、に相州家(そうしゅうけ)島津忠良の息子、虎寿丸(のちの貴久)を養子として迎える。しかし、薩州家(さっしゅうけ)の実久から強い反発にあい、すぐに家督を奪い返す。これにより勝久と相州家・薩州家3者の抗争がはじまる。この家督争いの結果、勝久は敗れ、日向国から母の実家の大友氏が治める豊後国(現、大分県)へ逃れた。天正元(1573)年に同地で逝去。享年71歳。

1508
尚古集成館
忠昌、清水城で自刃

7代元久(奥州家)の死後、家督継承をめぐって元久の弟久豊と伊集院氏が対立を起こす。久豊の勝利で8代当主は決まるが、総州家との抗争が続いた。応永29(1422)年に総州家が南九州から逃れることで両島津氏の争いは終了する。しかし、子忠国の代に伊集院氏が入来院氏らとともに本家に反旗を翻す。薩州家の祖用久との争いも生じ、度重なる戦闘の末、忠国は領国支配を安定化させることに成功した。

15世紀末、島津立久の死去の後、家督継承を巡って薩州家と本家が再び対立する。薩州家を中心に多くの有力庶家を敵に回した島津忠昌は肝付氏ら国人の反乱も対処せねばならなかった。永正5(1508)年、忠昌は戦乱の世を憂いて清水城にて自刃する。跡を継いだ子どもたちも相次いで早世し、領国の動乱は増すばかりであった。

1514
尚古集成館
十五代 島津 貴久(しまづ たかひさ)
十五代 島津 貴久(しまづ たかひさ)

永正11(1514)年~元亀2(1571)年

島津家15代当主。父は島津家庶流相州家の島津忠良。義久・義弘・歳久・家久4人の息子を持つ。大永6(1526)年(翌年という説もあり)、14代当主勝久に養子に迎えられ家督を継承したが、これに反対する薩州家(さっしゅうけ)の島津実久が鹿児島を襲撃、勝久も貴久への家督継承をやめようとしたため、家督継承をめぐって相州家の島津忠良・貴久親子と勝久、薩州家の3者が抗争を繰り広げることとなる。一時は薩州家が優勢であったが、相州家は伊集院忠朗の補佐を受けて徐々に勢力を拡大する。天文5(1536)年に一宇治城(現日置市伊集院町)を攻略して居城を移し、鹿児島奪還の拠点とした。天文8(1539)年に加世田・川辺・市来を攻略、紫原の戦いにも勝利し、薩州家を鹿児島から撤退させた。天文14(1545)年に一族から「三国守護」の承認を得、天文19(1550)年には内城(現、鹿児島市大竜町)に入った。

天文23(1554)年の大隅国岩剣城(現姶良町平松)の合戦以降には、大隅・日向への拡大を図り、渋谷氏や肝付氏との抗争を続けた。一方、京都の関白近衛稙家などとの交流も密になった。また、天文18(1549)年にはザビエルが来日、領国内で布教活動を行っている。元亀2(1571)年、58歳で逝去。

1517
宗教改革開始
1522
マゼラン艦隊世界一周
1523
寧波(ニンポー)の乱
1526
尚古集成館
貴久、当主就任、家督をめぐる内訌が勃発

忠治・忠隆の2人の兄を相次いで亡くした勝久は、領国支配のために有力庶家の1つ、伊作(現日置市)・多布施(現南さつま市)を拠点とする相州家島津忠良の協力を得ようとする。勝久は本家跡継ぎとして忠良の子虎寿丸(のちの貴久)を迎えるが、薩州家の島津実久が反発し、鹿児島へ攻め込むみ、貴久は鹿児島を追われた。勝久も家督を奪い返そうとしたため、本家の家督継承を巡って忠良・貴久と勝久、実久の三つ巴の争いが繰り広げられることとなった。

当初、実久は他の庶家を率いて忠良らを圧倒、鹿児島を手中に収める。忠良らは伊集院の一宇治城を攻め取り、鹿児島攻めの拠点とした。天文8(1539)年、忠良らは市来・紫原の戦いで実久を破り鹿児島から追い出す。以後、着実に支配領域を広げ、天文14(1545)年には貴久が一族庶家から守護として認められ、戦国大名島津氏としての第一歩を踏み出すのであった。

1533
尚古集成館
十六代 島津 義久(しまづ よしひさ)
十六代 島津 義久(しまづ よしひさ)

天文2(1533)年~慶長16(1611)年

島津家16代当主。父は貴久。元亀元(1569)年、薩摩国を平定。元亀3(1572)年に弟義弘が伊東義祐(よしすけ)を木崎原(現、宮崎県えびの市)の戦いで破り、大隅・日向方面で攻勢を強め、大隅国において禰寝(ねじめ)氏・肝付氏を相次いで降伏させる。天正5(1577)年に伊東氏を日向国から追い出し、悲願の三州統一を果たした。その後、豊後国(現大分県)の大友宗麟(そうりん)と対立するも、耳川の戦いで撃破する。肥後国(現熊本県)へも進出、相良氏を降した。天正12(1584)年、弟家久が沖田畷(おきたなわて、現長崎県島原市)の戦いで佐賀の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)を敗死させる。九州北部の武将も相次いで降伏したため、九州の大半を掌握するも、天正15(1587)年に九州の役で豊臣秀吉に敗れて出家、泰平寺(現薩摩川内市)にて降伏する。  豊臣政権の政策には非協力的な態度をとり、文禄4(1595)年に鹿児島から大隅国富隈(とみくま)城(現、霧島市隼人町)に移るように命じられた。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いには義弘からの軍勢催促を拒み、敗戦後には徳川家康との和平交渉にあたった。慶長9(1604)年、舞鶴城(現霧島市国分中央)に移る。慶長14(1609)年の琉球出兵においても非協力的な態度を貫いた。慶長16(1611)年、79歳で逝去。

1534
イエズス会設立
1535
尚古集成館
十七代 島津 義弘(しまづ よしひろ)
十七代 島津 義弘(しまづ よしひろ)

天文4(1535)年~元和5(1619)年

島津家17代当主。父は貴久。天文23(1554)年、南九州を転戦、元亀3(1572)年、日向国の木崎原の戦い(現宮崎県えびの市)で宿敵伊東氏に大打撃を与え、大隅・日向統一の道筋をつけた。さらに、天正6(1578)年の耳川の戦いで豊後(現大分県)の大友宗麟(そうりん)の大軍を撃破、肥後国(現熊本県)における合戦でも活躍する。天正15(1587)年の九州の役で豊臣秀吉に降伏した際、兄義久がいったん没収された大隅国を秀吉から与えられた。
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では義久に代わり朝鮮半島に出陣、泗川(しせん)の戦いなどで活躍する。秀吉に非協力的な義久に代わる人物として豊臣政権から重視され、文禄4(1595)年、秀吉から薩摩・大隅と日向国諸県郡を安堵する書状が義弘に与えられた。慶長5(1600)年、徳川家康が関東へ出陣すると、家康との約束で山城国(現、京都府)伏見城守備につこうとする。しかし、家康の家臣に拒まれたため、直後に起こった関ヶ原の戦いでは西軍につくことになった。西軍の敗北後、義弘は数百の軍勢で敵陣を正面突破、多大な犠牲を払いながらも領国にたどり着く。敗戦直後は桜島に謹慎するも、後に大隅国加治木へ移り、実子家久の領国経営を支えた。元和5(1619)年、加治木において85歳で逝去。

1539
尚古集成館
紫原の戦いで実久党を破る

大永7(1527)年からはじまる島津本家の家督継承をめぐった争いの発端は薩州家島津実久の介入であった。実久は前当主勝久と手を組み、勝久の養子として家督を継承した貴久を鹿児島から追い出した。実久は着実に勢力を拡大、反実久の新納忠勝を日向国志布志(現鹿児島県志布志市)から追い出し、一族から「三国守護」と仰がれるまでに至った。一方、勝久は実久と対立、実久に攻められて鹿児島から大隅国帖佐(現、姶良町)へと逃れる。相州家は伊集院忠朗とともに天文5(1536)年に一宇治城(現、日置市伊集院町)を攻略して、ここに居城を移し、鹿児島奪還の拠点とした。翌年には相州家は勝久と再び手を組み、実久に対抗しうる力を手に入れた。

天文8(1539)年、忠良・貴久父子は加世田・川辺・市来を攻略、また紫原の戦いにも勝利し、薩州家を鹿児島から撤退させた。以後、実久の勢力は衰え、天文14(1545)年に貴久は一族・庶家から「三国守護」の承認を得て南九州を支配することになる。

1543
尚古集成館
鉄砲伝来
1549
尚古集成館
ザビエル来鹿
1550
尚古集成館
内城入城
1554
尚古集成館
岩剣城の戦いで大隅国人衆らを破る

家督継承をめぐる争いに終止符を打った島津貴久であったが、北薩・大隅には島津氏に従わない国人が反旗を翻していた。貴久は、まず伊集院忠朗を遣わして大隅国清水(現、霧島市)の本田氏を追い落としたが、なお肝付氏や渋谷氏は抵抗し続けた。天文19(1550)年に居城を鹿児島の内城に移し、本格的に大隅国平定を開始。天文23(1554)年、菱刈氏・蒲生氏・祁答院氏と大隅国岩剣城(現、姶良町)をめぐる戦いで、勝利を収めた。以後、帖佐(現、姶良町)・蒲生を次々と攻め取った。

1560年代は貴久が鹿児島湾北部を、子義久は北薩を、義弘が対日向国伊東氏の戦いをそれぞれ続け、徐々に敵対勢力を圧倒していった。元亀元(1569)年、入来院氏・東郷氏を降し、薩摩国を掌握することに成功した。翌年には鹿児島に大隅国の肝付・伊地知・禰寝氏が船で攻め入るもこれを撃退している。そして日向国を支配する伊東氏と決戦を迎えることとなる。

1567
織田信長入京
1569
尚古集成館
薩摩国平定
1572
尚古集成館
木崎原の戦いで伊東氏を破る

元亀3(1572)年に日向国木崎原(現、宮崎県えびの市)にて島津氏と伊東氏が争った戦い。前年、島津貴久が亡くなると、領国の動揺をついて日向国の伊東義祐(よしすけ)が島津氏の所領である加久藤(現、宮崎県えびの市)を奪おうと図った。義祐は肥後国(現、熊本県)の相良氏と同盟を組んで大軍で侵攻してきた。加久藤を守備していた義弘は自軍を大勢であると見せかけることで相良氏を撤退させる。伊東軍が加久藤城の夜襲に失敗して退却する際、義弘は追いかけてことごとく打ち破った。総大将の伊東祐安(すけやす)以下多数を討ち死させたことで、一挙に伊東氏は没落した。翌年には伊東氏とともに島津氏と戦っていた大隅国の禰寝氏が降伏、さらに翌年に肝付氏が降伏するなど大隅における反島津氏の勢力が服従し、義祐は天正5年(1577)年に日向国から豊後国(現、大分)へと逃亡する。伊東氏を駆逐し薩摩・大隅・日向三国の支配回復を決定づけた戦いであり、のちの大友氏との争いの発端となるものであった。

1576
尚古集成館
十八代 島津 家久(しまづ いえひさ)
十八代 島津 家久(しまづ いえひさ)

天正4(1576)年~寛永15(1638)年

島津家18代当主。父は義弘。義久の娘亀寿と結婚し家督を相続する。その後、義弘と共に朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に従軍。朝鮮から帰国後、親豊臣派の老中伊集院幸侃(こうかん)を伏見にて殺害、幸侃の子忠真(ただざね)が反乱を起こすと、鎮圧にあたる。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで父義弘が敵中突破を敢行して帰国すると、義父義久とともに徳川方との交渉に当たり、巧みな交渉で2年後に家康と和睦、慶長11(1606)年、家康から「家」の字を賜り、忠恒から家久に改名した。また、慶長6(1601)年に鹿児島城を築城。慶長14(1609)年に樺山久高(ひさたか)を大将として琉球へ侵攻。降伏を受け入れ、琉球国王の尚寧王(しょうねいおう)を伴い家康・秀忠に謁見する。慶長20(1615)年に大坂の陣が起こった際、鹿児島から軍勢を率いて大坂に向かうが、その途中で大坂城は落城した。参戦しなかったため豊臣方と通じていたのではないかと疑われる。こうしたこともあり、桜田藩邸の御成(おなり)御殿で秀忠・家光を歓待するなど、幕府との関係改善に尽力した。寛永11(1634)年、将軍徳川家光より薩摩国・大隅国・日向国諸県(もろかた)郡の2国1郡と琉球国、72万8700石余が認められる。寛永15(1638)年、63歳で逝去。

1577
尚古集成館
三州統一

一族庶家の支持を得た島津貴久に対し、北薩の渋谷氏・菱刈氏や大隅の肝付氏らは日向国の伊東氏や肥後国(現、熊本)の相良氏と手を組んで島津氏に抵抗していた。貴久は、天文23(1554)年、大隅国の岩剣城の戦い以降、彼らとの戦いを本格化させる。貴久の子義久は菱刈氏や入来院氏を降伏させ、薩摩半島全体を支配下に治めた。

元亀3(1572)年、貴久の死後の動揺を狙って伊東氏が真幸方面(現宮崎県えびの市)に攻め込むと、貴久の次男義弘がこれを迎え撃ち撃破した(木崎原の戦い)。この後、伊東氏と同盟していた禰寝氏や肝付氏・伊地知氏が相次いで降伏し、大隅国は平定された。天正5(1577)年には日向国に本格的に進出、伊東氏の当主義祐は豊後国(現、大分)に逃れ、島津氏は三州統一を果たすのである。

1578
尚古集成館
耳川の戦いで大友氏を破る

天正6(1578)年に日向国で島津氏と大友氏が争った戦い。日向国のほぼ全てを手中に収めた島津氏に対して大友氏は警戒を強め、大友義統(よしむね)が大軍を率いて日向国へ侵攻した。当主の父、宗麟(そうりん)は熱心なキリシタンであり、日向国北部にキリスト教の理想郷を築こうと計画していた。そのため、侵略地の寺院が破却され、住民はもとより大友軍内部からも批難の声が挙がったという。大友軍は高城(現、宮崎県木城町)を包囲するが膠着(こうしゃく)状況となり、島津義久・義弘らの援軍と対峙した。大友軍は軍団内部がまとまらない状況のままで戦い、大敗北を喫した。高城から逃げる大友軍を島津軍は十数km離れた耳川まで追撃、大友軍に壊滅的なダメージを与えた。その報告を受けた宗麟も日向北部から逃亡した。多くの死亡者を出したこの戦い以降、大友氏は家臣団内の反乱などが相次ぎ、勢力を弱めることとなった。

1582
本能寺の変
1584
尚古集成館
沖田畷の戦いで龍造寺氏を破る

天正12(1584)年に肥前国(現、長崎県)島原で島津氏と龍造寺(りゅうぞうじ)氏が争った戦い。佐賀を本拠地とする龍造寺隆信(たかのぶ)は次第に勢力を広げ、島津氏の支配地と接触するようになった。肥後国(現、熊本県)の赤星氏や肥前国有馬氏の救援要請を受け、島津義久の弟、島津家久が島原に渡海した。家久ら島津軍と有馬氏の勢力は島原の沖田畷(現、長崎県島原市)にて対峙、突進する龍造寺軍を島津軍が側面から攻撃、龍造寺軍は大混乱となり、島津氏が圧勝した。龍造寺隆信はこの時に戦死し、有力な家臣も大勢討ち死した。イエズス会の記録では有馬氏の船からの大砲による砲撃が戦局に影響を与えたとしている。この後、当主を失った龍造寺氏は家臣の鍋島氏とともに島津氏に降伏し、北部九州の大部分を島津氏が支配することとなる。

1586
豊臣秀吉関白就任
1587
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九州の役、豊臣秀吉に降伏

ほぼ九州全域を島津氏が支配するようになった際、豊後国(現、大分)の大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求めた。天正13(1585)年に四国の長曽我部元親(ちょうそかべもとちか)を降伏させた秀吉は、関白の権限を用いて島津氏に九州停戦令(惣無事令[そうぶじれい])を出す。しかし、島津氏は秀吉を「由来なき仁」としてこれを拒否した。

天正14(1586)年に豊臣軍先鋒として土佐国(現、高知)の長曽我部元親・信親(のぶちか)父子らが九州に上陸。これを島津義久の弟、家久が迎え撃ち大打撃を与えた(戸次川[へつぎがわ]の戦い)。この後、島津軍は宗麟を臼杵(うすき)城に追い詰めたが、天正15(1587)年、秀吉とその弟、豊臣秀長(ひでなが)が本格的に島津攻めを開始すると、徐々に島津軍は後退した。九州北部の領主たちが離反し、日向国根白坂(ねじろざか、現宮崎県木城町)にて豊臣軍との決戦に敗れると、島津軍は各地で降伏する。義久は剃髪し、川内の泰平寺にて秀吉に降伏した。これによって九州全域を支配していた島津家は薩摩・大隅両国と日向国諸県郡(もろかたぐん)のみの所領へと削減されることになった。

1590
秀吉、天下統一
1592
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義弘・久保、朝鮮へ出陣
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梅北国兼一揆、歳久自刃
1594
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太閤検地

豊臣政権に降伏した島津氏は秀吉の家臣、石田三成や細川幽斎(ゆうさい)の命令のもと政権に奉仕しなければならなくなった。義久・義弘らは南九州と畿内の間を往復し、妻子は大坂に暮らすことを余儀なくされる。また、義弘の子久保は小田原の役に従軍し、関東の北条氏を攻めた。その他、海賊船取締や刀狩りなどが課せられていた。

天正20(1592)年、秀吉が朝鮮出兵を開始すると、島津氏も従軍させられる。義弘・久保父子は朝鮮半島へ赴き明・朝鮮軍と戦った。この間、島津家家臣が肥後国内で一揆をおこし、明人家臣許三官(きょさんかん)が明に日本の情報を漏らしていたことが発覚する。これらへの対処から秀吉は島津氏の領国経営に介入する。三成や家老伊集院忠棟を中心に太閤検地が実施された。また、義久を政治の中枢から外し、義弘とその子家久を中心とした領国経営に改めようとしている。このように豊臣政権の「際限なき軍役」は島津氏に変化と困難を与えた。

1599
尚古集成館
泗川の戦い、義弘・忠恒奮戦

明侵攻の足がかりとして豊臣秀吉は朝鮮半島に大軍を派遣した。島津家では島津義弘が兵を率いて朝鮮半島に出陣した。秀吉からは1万の軍勢動員が命令されていたが、人員確保が捗らず、島津軍の集結は遅れ、「日本一の遅陣」となる。文禄の役の際は島津氏が統括していた地域は住民の生活保護などがされており、一定の統治が成り立っていたことが近年知られるようになった。

慶長3(1598)年に秀吉が死ぬと、撤退戦が行われる。その際、島津軍は泗川(しせん)の戦いで明軍数万の軍勢を数千人で打ち破り、露梁(ろきょう)海戦では朝鮮軍の李舜臣(イスンシン)を戦死させた。朝鮮在陣中、島津軍は、義弘の嫡男久保をはじめ多くの将兵を失うなど多大な損害をこうむった。なお、義弘が連れ帰った朝鮮人陶工が薩摩焼を興した。

尚古集成館
庄内の乱、家久が伊集院氏を討伐

 

 

1600
尚古集成館
関ヶ原の戦い、義弘が西軍に属し敗北、敵中突破敢行

9月15日、関ヶ原で決戦がはじまった。兵力では西軍が勝っていたものの、相次ぐ東軍への寝返りにより西軍は瓦解した。石田・宇喜多の軍が敗走し、島津軍のみが戦場に取り残された。そこで義弘・豊久は敵陣に向かって突進した。敵味方混乱する中央を切り抜けて戦地を脱出しようとしたと考えられる。これに井伊・本多の軍勢が追撃、豊久や長寿院盛淳は討死し、わずか50名ほどで逃げ延びる。一方で井伊直政・松平忠吉を狙撃し、両者はその傷がもとで亡くなっている。

義弘は伊勢路を抜けて信楽・生駒山を通り和泉国(現、大阪)堺へと逃れる。義弘はそこで商人らの助けを借り、大坂にいた義弘・家久の妻子を連れて船で本国へ帰った。敵中突破を成し遂げた義弘はのちに薩摩武士の鑑として崇拝されることとなる。

尚古集成館
朝鮮人陶工、串木野で焼き物窯を築く(薩摩焼のはじまり)

旧薩摩藩領内で製作された陶磁器。朝鮮出兵の際、島津義弘が連れ帰った朝鮮人陶工たちが南九州にやってきて作られるようになる。茶器の名品として当代一の茶人、古田織部をはじめ茶人・諸大名らから高い評価を受ける。苗代川系・竪野系・龍門司系・元立院(西餅田)系・平佐系などに分けられ、平佐系は磁器、苗代川・竪野系・龍門司系・元立院系は主として陶器を焼いていた。また、陶器には「白薩摩」と「黒薩摩」がある。義弘は出来の良いものに判を押して焼かせたため、「御判手」と呼ばれる珍重された薩摩焼も存在する。幕末には斉彬が海外への輸出品として改良を加えた。

イギリス東インド会社設立
1601
尚古集成館
鹿児島城築城
1602
尚古集成館
家久、徳川家康と和睦し領地を安堵される

関ヶ原合戦の後、帰国した義弘は桜島で謹慎し、徳川家康との交渉は兄の島津義久と義弘の嫡男忠恒(家久)がおこなった。徳川方では井伊・本多らが講和交渉を担当し、義久に度々上洛要請をしたが、義久はこれを拒絶し続けた。長曽我部氏が上洛した後に改易となったこともあり、島津氏では武備恭順の構えを守り続けた。1度は島津攻めを決めた家康であったが、2年間のにらみ合いの末、家康は義久に所領安堵の誓約を送った。島津氏側も講和を受け入れて忠恒が慶長7(1602)年に伏見城で家康に面会し解決した。のちに忠恒は家康から「家」の字を拝領し、「家久」と名乗ることになる。

島津氏が所領を削減されることもなく江戸時代を迎えることが出来たのは、外城制を敷き、徹底した武備恭順の構えを示しながら日明貿易・対琉球貿易の仲介者としての立場を遣いつつ粘り強く交渉したからだと考えられている。

オランダ東インド会社設立
1603
江戸幕府成立
1609
尚古集成館
琉球出兵

四つの口貿易と呼ばれる江戸時代の外交体制は長崎口・対馬口・松前口そして琉球口を幕府・諸藩が管理することで統制されていた。琉球口は室町時代以降琉球王国と外交関係を保っていた薩摩藩が慶長14(1609)年に侵攻、服属させたことにより、幕府の許可のもと、薩摩藩が管轄することとなる。琉球王国は中国と朝貢貿易をおこなっていたため、薩摩藩はその貿易品の利潤を得るようになる。

薩摩藩の輸入品としては絹製品・丁子・生糸・鮫皮、輸出品は銀・乾昆布・いりこ・干鮑などであった。正規の貿易は幕府の統制下で品種・量が制限されていたため、江戸時代を通じて抜け荷(密貿易)がおこなわれていた。幕府の取締を受けながらも密貿易は続けられ、そこから得た利益をもとに薩摩藩は国力をつけていったのである。

1616
大坂夏の陣、豊臣家滅亡