世界文化遺産
「明治日本の産業革命遺産」

世界文化遺産
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」

世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」は、産業革命に成功した西洋圏から、日本という非西洋圏へ、産業化の移転が成功したことを証明する遺産群によって構成されています。国内で15番目の世界文化遺産で、重工業分野では日本初の登録です。九州(鹿児島・熊本・長崎・佐賀・福岡)、山口を中心に、静岡県伊豆の国市や、岩手県釜石市など全国8県11市にわたる23の資産で構成されています。相互に密接な関係のある資産をつないだシリアルノミネーションであること、稼働中の産業遺産を含んでいることが、大きな特徴でもあります。

 東アジアに位置し、鎖国と呼ばれる体制下にあった日本が、西洋の知識を書籍から吸収し、在来の技術や伝統文化を融合させ、約50年という短期間で「非西洋社会で最初の近代国家」へと成長を遂げます。これは、世界に類を見ない事例です。

鹿児島で近代化の足跡をめぐる

世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の登録への取り組みは、平成17年(2005)鹿児島県が開催した「九州近代化産業シンポジウム(かごしま宣言)」からはじまりました。

鹿児島には、幕末近代化のさまざまな足跡が残っています。これから先は、それをご紹介しましょう。

寺山炭窯跡
新波止砲台跡
旧集成館
旧集成館機械工場
旧鹿児島紡績所技師館(異人館)
火薬製造所跡
関吉の疎水溝
製煉所跡
桜島

寺山炭窯跡

集成館事業で必要な燃料を作成するため、炭焼き窯が藩内各地に作られた。反射炉・溶鉱炉・蒸気機関・硝子製造など近代化技術の多大なエネルギーは西欧において石炭が利用されていた。しかし、藩内には良質な石炭鉱脈が存在しなかったため、木炭を代わりに使用することとなった。日向国にある藩直轄の森林を利用して木炭を製造し、紀伊国(現、和歌山県)の木炭製造技術を習得することで、藩内使用のみならず大坂・江戸へも輸出するほど大量生産することができた。のちに鹿児島の寺山にも炭焼窯が作られ生産量増大が図られた。  平成24(2012)年に「旧集成館 附寺山炭窯跡 関吉疎水溝」として国指定史跡となった。

関吉の疎水溝

鹿児島市北部の関吉の疎水溝は、集成館事業において溶鉱炉の水車ふいごなどで必要な動力を磯地区に引き入れるためのものである。本来は享保7(1722)年ごろに仙巌園に水を引き込むために造られたものを、斉彬が改修して再利用したといわれる。鹿児島市川上町にて稲荷川から溶結凝灰岩の上に水路を引き、磯まで約8㎞続いている。その緩やかな傾斜角度は当時の高度な技術を証明するものである。平成15(2003)年に鹿児島市の史跡に指定され、平成24(2012)年には「旧集成館 附寺山炭窯跡 関吉疎水溝」として国指定史跡となった。現在も一部は水田の灌漑用水として利用されている。

旧鹿児島紡績所技師館
(異人館)

日本に残る数少ない初期西洋建築の1つ。別名、異人館。薩英戦争を経て、島津忠義が集成館事業を再興させた際、イギリスから招聘した紡績技師たちの宿舎として建設された。慶応2(1866)年に竣工される。西洋風の建築物であるが、実際に建築したのは日本人。洋風木造2階建の建築は現存する日本最古のものであり、当時技師たちには護衛がつくほどの好待遇であったが、戊辰戦争など政情不安のためわずか1年で技師は帰国してしまう。  その後、鹿児島製造所に使用され、明治天皇行幸の際の休憩所や西南戦争の際の仮病院として利用された。のちに鹿児島城跡に移されて鹿児島学校や造士館で使用されるも、昭和11(1946)年に現在の場所に戻される。終戦後、GHQのキャバレーとして使用されたが同26(1951)年に鹿児島市の所有となる。昭和37(1962)年に国の重要文化財に指定される。

旧集成館

島津斉彬が富国強兵・殖産興業を目指した工場群。斉彬は藩主となる以前から江戸を中心に西洋の近代技術の研究に乗りだし、蘭学者たちに蘭書の翻訳を依頼していた。嘉永4(1851)年に藩主となると、技術開発を全面的に推し進めた。磯別邸に隣接する竹林を切り拓いてたくさんの工場が造られ、一連の工場群は安政4(1857)年に「集成館」と命名された。この集成館を中核に各地で行われた近代化事業を集成館事業という。藩主の在任期間はわずか7年であったが、世子時代の蓄積と多くの技術者の努力もあり、日本の近代化を先駆ける事業を展開する。 斉彬の死後、集成館事業は縮小・一時停止し、薩英戦争の際にはイギリス海軍の砲撃で灰燼に帰すこととなる。その後、斉彬の跡を継いだ忠義が斉彬の弟である実父久光とともに集成館を復活させる。機械工場を造り、紡績・軍需の最先端をリードした。この藩の技術力・軍事力を背景に、薩摩藩は幕末・明治をリードしたのである。  幕府や他藩の近代化事業と異なる点は、業種の幅広さである。紡績・大砲製造から硝子・ガス灯・薩摩焼、さらには養蚕・教育改革まで斉彬は事業の拡大を進めた。これほどまでに業種が増えたのは斉彬が「人の和」を第一としていたからである。藩の軍事力の強化のみならず、人々の暮らしの豊かさを求めた改革が薩摩藩の近代化、集成館事業であった。  昭和34(1959)年に「旧集成館」として国指定史跡となり、平成24(2012)年には「旧集成館 附寺山炭窯跡 関吉疎水溝」となった。

旧集成館機械工場

日本最初の本格的洋式石造建築物。別名ストンホーム。薩英戦争を経て、島津忠義が集成館事業を再興させるが、本建築物は慶応元(1865)年に竣工した。建設に関しては、長崎にて西洋建築物を見た者が作ったようであり、外観や内部の基本構造は西洋式である。しかし、西洋の建築者が作ったとは思えない梁などが存在している。また、レンガの代わりに幕末薩摩藩の建築物でよく見られる溶結凝灰岩が使用されているのも大きな特徴である。  明治4(1871)年の廃藩置県の際に官有となり、翌年に鹿児島製造所と改称され、陸軍に移管される。同7(1874)年に海軍の所管となり、鹿児島機械所、のちに鹿児島造船所と改められる。西南戦争時には私学校に占拠された。戦後、民間に払い下げられた後、明治22(1889)年島津家の所有となって製糖工場の倉庫として利用された。大正8(1919)年に島津忠重は機械工場の改築を開始、博物館尚古集成館として同12(1923)年に新たなスタートを切る。昭和37(1962)年に国の重要文化財に指定された。

滝之上火薬製造所跡

19世紀前半に鹿児島の滝之上に水車を動力とした大規模な火薬製造所が設立された。当時、火薬製造のためには硝石・硫黄・木炭を混ぜる必要があった。硫黄は硫黄島や霧島で、木炭は領内各地で豊富に産した。しかし、硝石は藩内で不足しがちであった。そこで嘉永4(1851)年藩主に就任した島津斉彬は、蘭学者石河確太郎に人工硝石の製造法を調べさせ、谷山や城下の各地で硝石を作成する作硝場を設けた。また、西洋式の火薬である綿火薬の製作も行い、成功している。文久年間(1861~64)には、敷根(現霧島市)に本格的な洋式火薬製造所が築かれた。 明治4(1871)年の廃藩置県後には、集成館とともに軍の管轄下となる。明治10(1877)年の西南戦争の際には私学校生徒が鹿児島造船所(集成館の後身)とともに占拠した。政府軍は西郷軍が利用出来ないように、滝之上火薬工場に砲撃を加えて破壊し、敷根火薬工場にも部隊を派遣して爆破炎上させた。

製煉所跡

鹿児島城(鶴丸城)内花園に設置された、科学実験場。島津斉彬によって設立され、反射炉や様々な科学技術をはじめ、陶磁器用の釉薬、ガラス、アルコール、パンの製造が実験された。これらの実験で成功を修めたものが、磯に造られた工場群「集成館」において実用化されたのである。安政4(1857)年、斉彬によって開物館と名を改めた。

新波止砲台跡

海防のために設けられた砲台施設。薩摩藩はモリソン号事件の後、1840年代に台場を築く。斉興の頃に築造されたのは外洋の防備を意識したものであった。斉彬は鹿児島湾内にも台場を建設、嘉永6(1853)年の大門口・祇園之洲を、翌年には新波戸・弁天に台場を築造する(いずれも鹿児島城下)。城下周辺を除いた地域の台場はペリー来航までに完成、城下周辺の台場は薩英戦争前後に整備が完了されている。これらに集成館で造った大砲などを並べ、海防強化を図った。薩英戦争の際には、斉彬が設置した台場を用いてイギリス艦隊を鹿児島湾内で迎え撃ち、艦隊を撤退させるものの、台場も甚大な被害を被っている。  薩英戦争後には城下北部に東福城(東福寺城跡)・風月亭、桜島の燃崎・瀬戸に砲台を増設している。いずれも鹿児島湾内であり、薩英戦争の経験から城下付近の強化を行ったものである。明治5(1872)年には城下に一丁台場が築かれた。  廃藩置県後には軍が管理するものとなるも、のちに多くの管理が県に移され、防波堤として使用されたり、民間に借用されたりしていった。祇園之洲台場は西南戦争の官軍戦死者の墓地となる。新波戸台場と一丁台場は今もその姿を留めている。