薩摩の美術

薩摩の美術

室町時代、薩摩では雪舟の流れをくむ画人たちが美しい水墨画を残しました。時代が進み、江戸時代になると狩野派の絵師たちが活躍しています。

薩摩藩の美術における特殊性の一つとして挙げられるのが、絵師たちが「実力主義」だということです。同時代多くの地域では世襲制ですが、薩摩では「絵がうまい」「絵が好きだ」という人物が職を担うため、非常に個性的な絵師が次々に誕生します。その代表格が木村探元や柳田竜雪などです。

この流れが、明治以降の洋画の世界に、黒田清輝や和田英作を鹿児島から生み出すこととなります。

朝鮮陶工と薩摩焼

旧薩摩藩領内で製作された陶磁器。朝鮮出兵の際、島津義弘が連れ帰った朝鮮人陶工たちが南九州にやってきて作られるようになる。茶器の名品として当代一の茶人、古田織部をはじめ茶人・諸大名らから高い評価を受ける。苗代川系・竪野系・龍門司系・元立院(西餅田)系・平佐系などに分けられ、平佐系は磁器、苗代川・竪野系・龍門司系・元立院系は主として陶器を焼いていた。また、陶器には「白薩摩」と「黒薩摩」がある。義弘は出来の良いものに判を押して焼かせたため、「御判手」と呼ばれる珍重された薩摩焼も存在する。幕末には斉彬が海外への輸出品として改良を加えた。

薩摩切子

切子ガラスの1つ。一般には、透明ガラスに紅・藍・緑などの色ガラスを厚くきせ、色ガラスをカットして文様をあらわしたものを指す。色ガラスを浅い角度でカットすることによりできる「ぼかし」の美しさは薩摩切子の独創といわれている。 薩摩のガラス製造は、弘化3(1846)年、薩摩藩主島津斉興が中村製薬館を創設した際、江戸から硝子師を招聘し薬瓶をつくらせたことにはじまる。島津斉彬はさらに向上させ、薩摩切子を生み出させた。特に藩内外の洋学者が協力して生み出した紅ガラスは「薩摩の紅ガラス」として珍重された。紅ガラスには銅赤ガラスと金赤ガラスの二種類があった。 斉彬の死後に事業は縮小、薩英戦争で工場が破壊された。その後復活、明治5(1872)年の明治天皇の鹿児島巡幸時に、磯のガラス工場見学の記録がある。しかし、この工場も明治10(1877)年の西南戦争によって灰燼に帰したと思われる。この頃、薩摩切子は途絶えたが、昭和末期に復活を遂げるのである。

雛道具

雛道具は江戸時代以降、より豪華で精密なものへと進化していった。のちに嫁入り道具の1つとなり、輿入れ道具と同様の調度品が一式造られるようになる。  尚古集成館にある葵牡丹紋七宝繋蒔絵雛道具(あおいぼたんもんしっぽうなぎまきえひなどうぐ)は、5代将軍徳川綱吉の養女竹姫が島津家に嫁入りした際に持参したという伝承があり、島津家の家紋の1つである牡丹紋と徳川家の三つ葉葵紋が散らされている。輿(こし)や家具・文具・化粧道具など、99種407点に及ぶ豪華で精密・多彩なものであり、当時の大名家奥向の暮らしぶりがうかがうことができる。鹿児島県指定文化財。

御所人形

江戸時代中期以降に京都で作成された童形の人形。頭を大きく三頭身に作るので頭大(ずだい)人形とも称される。京都にて朝廷や公家から得ることが多かったため、お土産人形の名がある。尚古集成館所蔵の御所人形は薩摩藩が参勤交代の際に京都から得た品々であろう。幼児の格好をした愛らしい姿が特徴的である。

御用絵師

南九州の絵画の基礎を築いたのは雪舟から水墨画を学んだ秋月等観である。彼は明にも渡り帰国して多くの弟子を育てた。 江戸時代になって薩摩藩の御用絵師は秋月系水墨画派から徳川幕府が採用した狩野派の画壇に変化していく。しかし、幕府や多くの藩の絵師は世襲制で、江戸中期になると粉本(絵手本)に依拠する風潮から独創的な絵が描かれなくなり、マンネリ化していった。そのような中で、薩摩藩の絵師は世襲制ではなく、画才のあるものが登用されていった。中でも、木村探元は狩野派の画風に雪舟・秋月などの画風を織り込んだ絵を描き、活動の場を薩摩のみならず京都の禁裏や近衛家などにも広げ、のちに「見事っ探元」という言葉が生まれるほど高い評価を得た。探元は優れた門下生を育て、薩摩画壇に豊かな環境を与えた。また、その後も薩摩からは個性的な絵師が輩出し、この土壌が日本画家のみならず、黒田清輝・藤島武二・和田英作ら、日本の洋画壇をリードする画家を育んだと言われる。

島津家が育んだ文化

大名である島津家は、地位にふさわしい官職・位、教養を身につけることが必要だと考え、都の貴族や文化人との関係強化、文化向上に尽力しました。重臣たちもこれに倣い、競って教養を身につけようとしたため、各地で文化が花開くことになりました。

島津家が育んだ文化

大名である島津家は、地位にふさわしい官職・位、教養を身につけることが必要だと考え、都の貴族や文化人との関係強化、文化向上に尽力しました。重臣たちもこれに倣い、競って教養を身につけようとしたため、各地で文化が花開くことになりました。