豊臣政権に降伏した島津氏は秀吉の家臣、石田三成や細川幽斎(ゆうさい)の命令のもと政権に奉仕しなければならなくなった。義久・義弘らは南九州と畿内の間を往復し、妻子は大坂に暮らすことを余儀なくされる。また、義弘の子久保は小田原の役に従軍し、関東の北条氏を攻めた。その他、海賊船取締や刀狩りなどが課せられていた。

天正20(1592)年、秀吉が朝鮮出兵を開始すると、島津氏も従軍させられる。義弘・久保父子は朝鮮半島へ赴き明・朝鮮軍と戦った。この間、島津家家臣が肥後国内で一揆をおこし、明人家臣許三官(きょさんかん)が明に日本の情報を漏らしていたことが発覚する。これらへの対処から秀吉は島津氏の領国経営に介入する。三成や家老伊集院忠棟を中心に太閤検地が実施された。また、義久を政治の中枢から外し、義弘とその子家久を中心とした領国経営に改めようとしている。このように豊臣政権の「際限なき軍役」は島津氏に変化と困難を与えた。