明侵攻の足がかりとして豊臣秀吉は朝鮮半島に大軍を派遣した。島津家では島津義弘が兵を率いて朝鮮半島に出陣した。秀吉からは1万の軍勢動員が命令されていたが、人員確保が捗らず、島津軍の集結は遅れ、「日本一の遅陣」となる。文禄の役の際は島津氏が統括していた地域は住民の生活保護などがされており、一定の統治が成り立っていたことが近年知られるようになった。

慶長3(1598)年に秀吉が死ぬと、撤退戦が行われる。その際、島津軍は泗川(しせん)の戦いで明軍数万の軍勢を数千人で打ち破り、露梁(ろきょう)海戦では朝鮮軍の李舜臣(イスンシン)を戦死させた。朝鮮在陣中、島津軍は、義弘の嫡男久保をはじめ多くの将兵を失うなど多大な損害をこうむった。なお、義弘が連れ帰った朝鮮人陶工が薩摩焼を興した。