鋳製方(いせほう)・中村製薬館設立

天保の改革時、欧米諸国の艦船の来航が相次ぎ対外的な危機感が高まった。このため、長崎で藩士に砲術を学ばせ、天保13(1842)年に洋式砲術の採用に踏み切る。弘化3(1846)年には青銅砲を鋳造する鋳製方(いせいほう)を設置 […]

調所広郷、財政改革に着手

子斉宣を隠居させ、孫斉興を藩主に据えた島津重豪は、改革のために調所広郷を抜擢する。文政9(1826)年頃に大坂の経済事情を調査し、財政改革主任を命ぜられ大坂・鹿児島で改革を実行する。天保4(1833)年の重豪の死後も斉興 […]

重豪・斉彬、シーボルトと会見

島津重豪は長崎より入手できるヨーロッパの学問、蘭学を非常に好んだ。オランダ商館から入手できる知識・技術・文化・言語を学ぶが、のちに「蘭癖大名」と呼ばれることとなる。重豪をはじめ彼の実子である豊前国(現、大分)中津藩の奥平 […]

宝島事件、島民とイギリス人が銃撃戦をおこなう

ペリー来航の約30年前である文政7(1824)年、宝島(現、十島村)にイギリス捕鯨船が到着、船員が牛を強奪しようとしたことから島に派遣されていた役人との間で銃撃戦が繰り広げられ、イギリス人1名が射殺された。これを機に幕府 […]