天保の改革時、欧米諸国の艦船の来航が相次ぎ対外的な危機感が高まった。このため、長崎で藩士に砲術を学ばせ、天保13(1842)年に洋式砲術の採用に踏み切る。弘化3(1846)年には青銅砲を鋳造する鋳製方(いせいほう)を設置、大砲・小銃の製造にあたらせ、理化学薬品の研究・製造をおこなう中村製薬所を創設するなど、西洋技術を導入して軍備の近代化を図る。諸藩と比べて遜色ない近代化政策であったが、これは財政改革と並行して行われたものであった。また、蘭学に精通していた斉彬からすると、不十分な近代化であった。斉彬はこれらを発展させて巨大な工業地帯と近代化事業に臨んだのである。