子斉宣を隠居させ、孫斉興を藩主に据えた島津重豪は、文政11(1828)年に調所広郷を改革主任に任命。以後、調所によって抜本的な財政改革が実施されていくことになる。天保4(1833)年の重豪の死後も斉興によって改革続行が命ぜられ、天保7(1836)年以降、京都・大坂ついで江戸で総額500万両にも及ぶ藩の借金を250年かけて無利子で返済する措置が強行された。調所は南西諸島の砂糖を財政収入の基軸に据えて専売制を強化し、その他の国産品についても改良・専売制を実施、琉球を通じた貿易も拡大して収入増加につとめた。同時に人材登用と支出削減にもつとめ、改革開始から十年余を経て国元に50万両もの貯蓄を築くに至った。
これらの他にも、調所は藩内の新田開発や河川改修にも力を入れており、鹿児島城下を流れる甲突川に五大石橋が築かれたのも調所の改革下でのことである。