嘉永元(1848)年、島津斉彬はオランダ人フェルダムの蒸気船技術書の翻訳を幕府の箕作玄甫(みつくりげんぽ)に依頼した。その翻訳書「水蒸船説略」として完成すると、これをもとに研究に着手した。嘉永4(1851)年、斉彬が藩主となると江戸・鹿児島双方において蒸気機関の製作を命じた。技術者たちは試行錯誤の末、安政2(1855)年に製作に成功した。さらに同年鹿児島から廻漕した越通船に蒸気機関を備え付け、雲行丸として江戸にて試運転に成功した。雲行丸を見たオランダ人のカッテンディーケは、大きさは十二馬力だが、あちらこちらから蒸気が漏れたり、多くの欠点があったりして二馬力くらいしか出ていない。しかし、簡単な図面のみで完成にこぎ着けていることに脱帽すると驚嘆している。