藩内の教育・文化向上のため、島津斉彬は出版事業も手がけた。その一環として木版印刷より摩耗の少ない西洋の活版印刷の技術の研究・開発に注目し、江戸の木版師、木村嘉平(かへい)に鉛活字の製造を命じた。嘉平は蘭学者などから知識をもらい、金属のイオン化傾向の差を利用して、蝋石の周りで銅イオンと電子を結びつけて金属銅で鋳型を造る電胎法(でんたいほう)を用い、試行錯誤の末、元治元(1864)年活字の作成に成功した。しかし、活字製造を命じた斉彬は既に亡くなっており、嘉平自身も視力を落としたため活版印刷の実用化までは至らなかった。