ペリー来航の約30年前である文政7(1824)年、宝島(現、十島村)にイギリス捕鯨船が到着、船員が牛を強奪しようとしたことから島に派遣されていた役人との間で銃撃戦が繰り広げられ、イギリス人1名が射殺された。これを機に幕府は翌年に異国船打ち払い令を公布し、異国船に砲撃を加えて追い払うように命じた。天保8(1837)年にアメリカ船モリソン号が浦賀(現、神奈川県横須賀市)と山川沖(現、指宿市山川町)に来航した際、薩摩藩はこの幕命に従い砲撃を加えた。

その後、琉球へ西欧列強の艦船が度々来航するようになった。天保14(1843)年にはイギリス船が八重山・宮古島を訪れ強引に測量調査を行い、翌年にはフランス軍艦が那覇に来航、以後、毎年のようにイギリス・フランス艦が来航して通商・布教許可を求めた。これらの危機から薩摩藩は洋式砲術の採用や青銅砲鋳造など海防力強化の対策を講じるようになった。