19世紀半ば、日本近海に姿を現した西洋の軍艦は数千㌧クラスのものもあった。大型の大砲を装備し、蒸気機関を搭載した船もあった。一方、日本国内では、大船建造禁止令等により、幕府・諸大名は江戸時代初期の軍船を修理して使い続けている状態で、西欧の軍艦に太刀打ちできるようなものではなかった。
この差を早く詰める必要を感じていた島津斉彬は、嘉永4(1851)年に藩主就任するとただちに、30年前に洋式帆船を造った寺師正容の子寺師宗道・市来四郎兄弟を召し出し、寺師の資料と、長崎から取り寄せた資料を併せて洋式船を建造、伊呂波丸と名付けた。また、中浜万次郎(ジョン万次郎)がアメリカから琉球・鹿児島に護送されてくると、船手方を派遣して外国の捕鯨船の構造を聞き取らせ、これを基に小型洋式船の越通船を造らせた。しかしこれらは和洋折衷の実験的なものであった。 斉彬は本格的な洋式船建造を目論んだが、大船建造禁止令が障壁となったため、老中阿部正弘と相談、嘉永6(1853)年に桜島の瀬戸村(現鹿児島市黒神町)で琉球大砲船の建造に着手した。その数日後にペリー艦隊が浦賀に来航、斉彬は海軍・海運力強化の必要性を幕府に訴え、幕府もこれ容れて大船建造を解除する。「琉球大砲船」も洋式船に改造されることになり、内装まで洋式の本格的な洋式軍艦昇平丸として完成させた。昇平丸は日の丸を掲げて江戸に赴き、のちに幕府に贈られ昌平丸と改名、海軍伝習所や開拓使などに使われる。また、昇平丸に続いて、牛根(現垂水市)や桜島の有村で鳳瑞丸・万年丸・大元丸・承天丸が建造され、幕府に売却されたものもあった。幕府・諸藩が洋式帆船を所有するようになったことから日本の船印が必要となり、斉彬は日の丸を提案するのである。