天文2(1533)年~慶長16(1611)年

島津家16代当主。父は貴久。元亀元(1569)年、薩摩国を平定。元亀3(1572)年に弟義弘が伊東義祐(よしすけ)を木崎原(現、宮崎県えびの市)の戦いで破り、大隅・日向方面で攻勢を強め、大隅国において禰寝(ねじめ)氏・肝付氏を相次いで降伏させる。天正5(1577)年に伊東氏を日向国から追い出し、悲願の三州統一を果たした。その後、豊後国(現大分県)の大友宗麟(そうりん)と対立するも、耳川の戦いで撃破する。肥後国(現熊本県)へも進出、相良氏を降した。天正12(1584)年、弟家久が沖田畷(おきたなわて、現長崎県島原市)の戦いで佐賀の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)を敗死させる。九州北部の武将も相次いで降伏したため、九州の大半を掌握するも、天正15(1587)年に九州の役で豊臣秀吉に敗れて出家、泰平寺(現薩摩川内市)にて降伏する。  豊臣政権の政策には非協力的な態度をとり、文禄4(1595)年に鹿児島から大隅国富隈(とみくま)城(現、霧島市隼人町)に移るように命じられた。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いには義弘からの軍勢催促を拒み、敗戦後には徳川家康との和平交渉にあたった。慶長9(1604)年、舞鶴城(現霧島市国分中央)に移る。慶長14(1609)年の琉球出兵においても非協力的な態度を貫いた。慶長16(1611)年、79歳で逝去。