嘉暦3(1328)年~嘉慶元(1387)年

島津家6代当主、奥州家(おうしゅうけ)の祖。父の貞久は貞治2(1363)年、三国守護職のうち薩摩国守護職を師久に、大隅国守護職をその弟氏久に譲り渡した。氏久とその子孫が代々陸奥守(むつのかみ)と名乗ったため、氏久の系統は奥州家と呼ばれることになる。

北朝方(足利方)として、九州各地を転戦した。観応の擾乱(じょうらん)で足利方が2分すると、尊氏方としてその弟の直義(ただよし)方とも戦火を交えるようになり、一時は南朝方と手を組んだ。永和元(天授5、1375)年、南朝方の討伐のため肥後水島(現熊本県菊池市七城町)に赴いた際、氏久が説得して参陣した少弐冬資(しょうにふゆすけ)が味方の九州探題今川了俊(りょうしゅん)によって暗殺されると、これに激怒し、甥の伊久とともに南朝方となる。このため翌年に幕府によって大隅国守護職が没収された。

氏久は海外交易に関心を示し、応安7(1374)年には明に通商を求める使者を派遣している。 また、暦応4(1341)年、父が攻略した鹿児島東福寺城(現鹿児島市清水町)に居を構え、島津家で初めて鹿児島を拠点とした。のち大姶良城(現鹿屋市大姶良町)・志布志城(現、志布志市志布志町)に居を移す。嘉慶元(1387)年、60歳で逝去。