延享2(1745)年~天保4(1833)年

島津家25代当主。父は重年。父の死去にともない、わずか11歳にして家督を相続する。藩校造士館や演武館・医学院を設立。天文研究のための明時館(天文館)を創建、薩摩暦の精度向上を図った。また、海外の情報文化に強い関心を示し「蘭癖(らんぺき)」と呼ばれ、オランダ商館長と親交を持ち、シーボルトとも会見した。吉野薬園の設立し、「成形図説」・「南山俗語考」・「質問本草」の書籍刊行など学問を奨励、藩の文化水準の向上を図っている。
娘の於篤(茂姫)が婚約していた一橋豊千代が10代将軍家治の養子となり、家斉と名を改めて天明7(1787)年、11代将軍に就任する。藩主を斉宣に譲り隠居するも、寛政元(1789)年に茂姫が家斉のもとへ嫁ぐと、将軍の義父として「高輪下馬(たかなわげば)」の異称で中央政治に影響を与えた。一方で江戸の桜田・芝藩邸の火災や桜島大噴火、度重なる藩内の風水害で財政破綻の危機に陥った。これらの負債が重豪の学問奨励政策と重なり、莫大な負債を抱えたため、斉宣と家老たちが財政再建のため重豪の政策を悉く改めると、これに激怒した重豪は家老たちを処罰し斉宣を隠居させた(文化朋党事件・近思録崩[きんしろくくずれ])。孫の斉興が藩主になると自ら藩政を握り、文政11(1828)年に調所広郷を登用、財政改革を行わせる。天保4(1833)年、江戸の高輪藩邸において89歳で逝去。