日本最大の荘園。万寿年間(1024~1028)に太宰府の役人平季基(たいらのすえもと)によって関白藤原頼通(よりみち)に寄進され成立したという。日向国諸県郡(もろかたぐん)の島津の地(現、宮崎県都城市郡元付近)を中心としたことから島津荘と名付けられた。荘園の範囲は次第に薩摩国・大隅国へと広がっていく。
元暦2(1185)年に源頼朝と近衛家から惟宗忠久が島津荘の下司職(げししき・げすしき)に任命される。後に忠久は地頭職に任命されるが、島津荘は摂関家の1つ近衛家が本家として支配しており、近衛家に仕えていた忠久が荘園の管理を任されるのは自然な流れであった。本家近衛家の下には領家として興福寺一乗院が存在していた。建仁3(1203)年の比企氏の乱に連座して忠久は島津荘地頭職を没収されるも、のちに薩摩方のみ地頭職が返される。大隅・日向の地頭職は幕府執権の北条氏一族が鎌倉幕府滅亡まで保有し続ける。