9月15日、関ヶ原で決戦がはじまった。兵力では西軍が勝っていたものの、相次ぐ東軍への寝返りにより西軍は瓦解した。石田・宇喜多の軍が敗走し、島津軍のみが戦場に取り残された。そこで義弘・豊久は敵陣に向かって突進した。敵味方混乱する中央を切り抜けて戦地を脱出しようとしたと考えられる。これに井伊・本多の軍勢が追撃、豊久や長寿院盛淳は討死し、わずか50名ほどで逃げ延びる。一方で井伊直政・松平忠吉を狙撃し、両者はその傷がもとで亡くなっている。
義弘は伊勢路を抜けて信楽・生駒山を通り和泉国(現、大阪)堺へと逃れる。義弘はそこで商人らの助けを借り、大坂にいた義弘・家久の妻子を連れて船で本国へ帰った。敵中突破を成し遂げた義弘はのちに薩摩武士の鑑として崇拝されることとなる。