一族庶家の支持を得た島津貴久に対し、北薩の渋谷氏・菱刈氏や大隅の肝付氏らは日向国の伊東氏や肥後国(現、熊本)の相良氏と手を組んで島津氏に抵抗していた。貴久は、天文23(1554)年、大隅国の岩剣城の戦い以降、彼らとの戦いを本格化させる。貴久の子義久は菱刈氏や入来院氏を降伏させ、薩摩半島全体を支配下に治めた。
元亀3(1572)年、貴久の死後の動揺を狙って伊東氏が真幸方面(現宮崎県えびの市)に攻め込むと、貴久の次男義弘がこれを迎え撃ち撃破した(木崎原の戦い)。この後、伊東氏と同盟していた禰寝氏や肝付氏・伊地知氏が相次いで降伏し、大隅国は平定された。天正5(1577)年には日向国に本格的に進出、伊東氏の当主義祐は豊後国(現、大分)に逃れ、島津氏は三州統一を果たすのである。