南北朝期の暦応4(1341)年、南朝方の肝付氏らが立てこもった鹿児島の東福寺城を、北朝方の島津貞久や禰寝(ねじめ)氏が攻め落とした。貞和3(1347)年には南朝方の紀伊国(現、和歌山県)の熊野水軍や中国・四国の水軍が襲撃したが、貞久は撃退に成功している。その後も南北朝の対立が同地域で繰り広げたため、貞久は息子の氏久に当城を守らせた。これが島津氏の鹿児島入りの最初である。氏久はのちに大姶良城・志布志城へと居城を移している。

氏久の子、元久は東福寺城が手狭であることを理由に本拠地として隣の山に城を築いた。清水城である。麓には「清水屋形」と呼ばれる施設を建築し、大規模な城となった。以後、居城は御内・鹿児島城(鶴丸城)と移るが、鹿児島は500年に渡って島津氏の政治中枢となり、現在まで南九州の中核であり続けるのである。