5代貞久は後醍醐天皇・足利尊氏の催促に応じて鎮西探題北条英時を攻め滅ぼす。その恩賞として大隅国・日向国の両守護職が与えられた。のちに日向国守護は失い、薩摩・大隅2ヶ国の守護となる。貞久の嫡子は宗久であったが、暦応3(1340)年早世したため、貞久は師久に薩摩国守護を、氏久に大隅国守護を分割して譲った。貞久一族は上総介を名乗ったため総州家と呼ばれ、氏久一族は陸奥守を名乗ったため奥州家と呼ばれるようになる。こうして島津本家は2つに分かれた。師久・氏久兄弟は協力して南九州を支配するも、彼らの子どもの代になって徐々に関係が悪化することになる。