天正12(1584)年に肥前国(現、長崎県)島原で島津氏と龍造寺(りゅうぞうじ)氏が争った戦い。佐賀を本拠地とする龍造寺隆信(たかのぶ)は次第に勢力を広げ、島津氏の支配地と接触するようになった。肥後国(現、熊本県)の赤星氏や肥前国有馬氏の救援要請を受け、島津義久の弟、島津家久が島原に渡海した。家久ら島津軍と有馬氏の勢力は島原の沖田畷(現、長崎県島原市)にて対峙、突進する龍造寺軍を島津軍が側面から攻撃、龍造寺軍は大混乱となり、島津氏が圧勝した。龍造寺隆信はこの時に戦死し、有力な家臣も大勢討ち死した。イエズス会の記録では有馬氏の船からの大砲による砲撃が戦局に影響を与えたとしている。この後、当主を失った龍造寺氏は家臣の鍋島氏とともに島津氏に降伏し、北部九州の大部分を島津氏が支配することとなる。