斉彬の遺志を継いだ島津久光は、文久2(1862)年、勅使大原重徳とともに江戸に下向し、幕政改革を実現させた。その帰国の途中で武蔵国生麦村(現、神奈川県横浜市)にて馬上のイギリス人4名と遭遇した。日本に着いて間もない彼らは日本の習慣に疎く、馬に乗ったまま久光の行列に突っ込んだため、供侍たちが1人を斬り殺し、2人を負傷させた。
この生麦事件に対してイギリスは翌年、賠償金と犯人の処刑を求めた。薩摩藩がこれを拒否し続けたため、翌年、鹿児島湾に軍艦7隻を派遣した。そして薩摩藩との間で2日間にわたり激しい砲撃戦が行われた。軍備に勝るイギリス海軍は鹿児島市街地を焼き払い、斉彬が築いた集成館や台場を焼失させた。一方で薩摩藩も奮戦し、イギリス側に63名の死者を出させた。これにより斉彬の海防強化の政策が正しかったことと、西洋諸国の強さを認識した薩摩藩はイギリスと手を組み、近代化への動きを加速させた。