大永7(1527)年からはじまる島津本家の家督継承をめぐった争いの発端は薩州家島津実久の介入であった。実久は前当主勝久と手を組み、勝久の養子として家督を継承した貴久を鹿児島から追い出した。実久は着実に勢力を拡大、反実久の新納忠勝を日向国志布志(現鹿児島県志布志市)から追い出し、一族から「三国守護」と仰がれるまでに至った。一方、勝久は実久と対立、実久に攻められて鹿児島から大隅国帖佐(現、姶良町)へと逃れる。相州家は伊集院忠朗とともに天文5(1536)年に一宇治城(現、日置市伊集院町)を攻略して、ここに居城を移し、鹿児島奪還の拠点とした。翌年には相州家は勝久と再び手を組み、実久に対抗しうる力を手に入れた。
天文8(1539)年、忠良・貴久父子は加世田・川辺・市来を攻略、また紫原の戦いにも勝利し、薩州家を鹿児島から撤退させた。以後、実久の勢力は衰え、天文14(1545)年に貴久は一族・庶家から「三国守護」の承認を得て南九州を支配することになる。