元亀3(1572)年に日向国木崎原(現、宮崎県えびの市)にて島津氏と伊東氏が争った戦い。前年、島津貴久が亡くなると、領国の動揺をついて日向国の伊東義祐(よしすけ)が島津氏の所領である加久藤(現、宮崎県えびの市)を奪おうと図った。義祐は肥後国(現、熊本県)の相良氏と同盟を組んで大軍で侵攻してきた。加久藤を守備していた義弘は自軍を大勢であると見せかけることで相良氏を撤退させる。伊東軍が加久藤城の夜襲に失敗して退却する際、義弘は追いかけてことごとく打ち破った。総大将の伊東祐安(すけやす)以下多数を討ち死させたことで、一挙に伊東氏は没落した。翌年には伊東氏とともに島津氏と戦っていた大隅国の禰寝氏が降伏、さらに翌年に肝付氏が降伏するなど大隅における反島津氏の勢力が服従し、義祐は天正5年(1577)年に日向国から豊後国(現、大分)へと逃亡する。伊東氏を駆逐し薩摩・大隅・日向三国の支配回復を決定づけた戦いであり、のちの大友氏との争いの発端となるものであった。