江戸幕府は、幕府がおこなうべき工事を、「御手伝」の名目で各藩に押しつけた。薩摩藩もその例外ではなかった。慶長11(1606)年に江戸城修築御手伝を命じられて以降、江戸城・大坂城の普請や徳川家菩提寺の寛永寺(かんえいじ)本堂造営、朝廷の内裏外垣牆(だいりがいえんしょう)修築など様々なお手伝い普請をすることとなる。これらの負担が藩の財政を悪化させる一因であった。その中でも特に有名なお手伝い普請が、宝暦3(1753)年に命じられた木曽三川治水工事である。この工事費は藩の収入の約3年分、40万両におよび、80名余りの藩士が命を落とした。