家督継承をめぐる争いに終止符を打った島津貴久であったが、北薩・大隅には島津氏に従わない国人が反旗を翻していた。貴久は、まず伊集院忠朗を遣わして大隅国清水(現、霧島市)の本田氏を追い落としたが、なお肝付氏や渋谷氏は抵抗し続けた。天文19(1550)年に居城を鹿児島の内城に移し、本格的に大隅国平定を開始。天文23(1554)年、菱刈氏・蒲生氏・祁答院氏と大隅国岩剣城(現、姶良町)をめぐる戦いで、勝利を収めた。以後、帖佐(現、姶良町)・蒲生を次々と攻め取った。
1560年代は貴久が鹿児島湾北部を、子義久は北薩を、義弘が対日向国伊東氏の戦いをそれぞれ続け、徐々に敵対勢力を圧倒していった。元亀元(1569)年、入来院氏・東郷氏を降し、薩摩国を掌握することに成功した。翌年には鹿児島に大隅国の肝付・伊地知・禰寝氏が船で攻め入るもこれを撃退している。そして日向国を支配する伊東氏と決戦を迎えることとなる。