島津斉彬は藩主となる以前から西欧列強のアジア進出を危惧し、西洋の近代技術の研究に乗りだし、蘭学者たちに蘭書の翻訳を依頼していた。嘉永4(1851)年、藩主となると、技術開発を全面的に推し進めた。翌年、磯別邸に隣接する竹林が切り開かれて反射炉建設がはじまり、これを皮切りにガラス工場・鍛冶場など多くの工場が造られ、安政4(1857)年に一連の工場群は「集成館」と命名された。集成館で必要な燃料である木炭は藩内各地で作られた。この集成館を中核に各地で行われた近代化事業を「集成館事業」と呼ぶ。集成館事業では大砲・鉄砲・火薬・洋式船の開発のみならず、薩摩切子や写真、パンの研究の研究も行われていた。斉彬の藩主在任期間はわずか7年であったが、世子時代の蓄積と多くの技術者の努力もあり、日本の近代化を先駆ける事業を展開することができた。斉彬の死後、養子忠義が跡を継ぐも、実権は彼の政策に批判的であった斉彬の祖父斉興が握ったため、集成館事業は縮小された。しかし、斉興死後に忠義が実父久光とともに集成館を復活させ、日本の近代化・工業化をリードした。