関ヶ原合戦の後、帰国した義弘は桜島で謹慎し、徳川家康との交渉は兄の島津義久と義弘の嫡男忠恒(家久)がおこなった。徳川方では井伊・本多らが講和交渉を担当し、義久に度々上洛要請をしたが、義久はこれを拒絶し続けた。長曽我部氏が上洛した後に改易となったこともあり、島津氏では武備恭順の構えを守り続けた。1度は島津攻めを決めた家康であったが、2年間のにらみ合いの末、家康は義久に所領安堵の誓約を送った。島津氏側も講和を受け入れて忠恒が慶長7(1602)年に伏見城で家康に面会し解決した。のちに忠恒は家康から「家」の字を拝領し、「家久」と名乗ることになる。

島津氏が所領を削減されることもなく江戸時代を迎えることが出来たのは、外城制を敷き、徹底した武備恭順の構えを示しながら日明貿易・対琉球貿易の仲介者としての立場を遣いつつ粘り強く交渉したからだと考えられている。