比企能員は源頼朝の乳母比企尼の養子であり、島津忠久の母丹後局の兄であった。頼朝の挙兵時以来、平氏追討のため西国に赴く。頼朝の信任が厚く、娘は2代将軍源頼家(頼朝の子)の妻となっている。

頼朝没後、北条氏を凌ぐ勢いとなった比企氏を恐れ、執権北条時政(ときまさ)は頼家重病の時期に比企氏の権力を削ぐ計画を立てる。これに激怒した能員が建仁3(1203)年に頼家とともに時政追討を行おうとするが、逆に能員は時政によって謀殺される。比企氏一族は北条氏の追討軍によって滅亡し、比企氏の縁戚・一味の中には多くの逮捕者が出た。島津忠久は縁者のため、薩摩・大隅・日向の三国守護職等を没収されてしまうことになる。