反射炉とは、大砲製造のために銑鉄(せんてつ)を溶かして大砲の鋳型に流し込むための炉である。大砲製造のためには鉄を高温で長時間熱さねばならず、高い技術が必要であった。そのためにまず、鹿児島城内の実験場で反射炉のひな形が造られた。オランダの鉄製大砲の製造方法を記した本を基に、嘉永6(1853)年、磯で本格的な反射炉(1号炉)が完成、砲弾鋳造に成功した。しかし、湿気対策が不十分で炉の温度が上がらず、耐火レンガの質も悪く、鉄製砲鋳造には至らなかった。さらに、炉本体も傾くなどして失敗に終わった。その後、2号炉の作成を開始、安政4(1857)年に完成した。2号炉では、薩摩焼の陶工たちが、天草の土を使って耐火レンガの品質向上を図り、基礎部分も頑丈に造られ、湿気対策も強化された。2号炉は、先に反射炉を作った佐賀藩士やオランダ人カッテンディーケが賞賛するほどの出来映えであった。