フランス人ダゲールが、研磨した銀板にヨウド蒸気をあてて感光性を持った沃化銀の薄膜を形成させて撮影、これを水銀蒸気にあてて現像し、熱した飽和食塩水溶液に浸して不感光の沃化銀を除いて画像を固定する写真術を発明した。1回の撮影で1枚きり、しかも左右逆に写るという欠点があったが、繊細な画像が得られるため瞬く間に世界中に広まった。 日本へも19世紀半ばに伝わり研究が始められた。その指導的立場に立っていたのが島津斉彬を中心とする薩摩藩の研究グループであった。彼らは銀板写真のことを「印影鏡(いんえいきょう)」と呼んだ。斉彬は「父母の姿をも百年の後に残す貴重の術」と評し、撮影のための研究を藩士に命令した。安政4(1857)年、薩摩藩の研究グループは銀板写真の撮影に成功、鹿児島城内で宇宿彦右衛門らによって斉彬が撮影された。この斉彬の銀板写真は、日本人が撮影した唯一の銀板、日本人が撮影した現存最古の写真として、映像資料として初めて国の重要文化財に指定された。