安政5(1858)年、日米修好通商条約の締結をめぐる議論の中で、薩摩藩主島津斉彬は幕府に建白書を提出している。彼は大砲・軍艦など海防の備えが不十分であるため戦いを避けて締結すべきであると述べている。その上で、日本を守るため「第一人和、継テ諸御手当」と、海防手当などよりも人の和を大切にするように説いた。旧来の悪弊を改め、富国強兵策をとって強く豊かな国造りを目指し、身分の上下に関わらず一丸となって、海防を整えるよう建言している。ただ海防を強化するのみならず、豊かな国造りをして、日本の人々が手を取り合って協力することの必要性訴えたのは斉彬の独特の考えであった。

斉彬はこの建白書を出して間もなく亡くなるが、彼の国家観や富国強兵の必要性など、集成館事業を中心とした政策の背景にある大きな目標がうかがえる。斉彬の遺志は薩摩藩が受け継ぎ、近代日本へと続くのである。