岩剣城の戦いで大隅国人衆らを破る

家督継承をめぐる争いに終止符を打った島津貴久であったが、北薩・大隅には島津氏に従わない国人が反旗を翻していた。貴久は、まず伊集院忠朗を遣わして大隅国清水(現、霧島市)の本田氏を追い落としたが、なお肝付氏や渋谷氏は抵抗し続 […]

紫原の戦いで実久党を破る

大永7(1527)年からはじまる島津本家の家督継承をめぐった争いの発端は薩州家島津実久の介入であった。実久は前当主勝久と手を組み、勝久の養子として家督を継承した貴久を鹿児島から追い出した。実久は着実に勢力を拡大、反実久の […]

貴久、当主就任、家督をめぐる内訌が勃発

忠治・忠隆の2人の兄を相次いで亡くした勝久は、領国支配のために有力庶家の1つ、伊作(現日置市)・多布施(現南さつま市)を拠点とする相州家島津忠良の協力を得ようとする。勝久は本家跡継ぎとして忠良の子虎寿丸(のちの貴久)を迎 […]

忠昌、清水城で自刃

7代元久(奥州家)の死後、家督継承をめぐって元久の弟久豊と伊集院氏が対立を起こす。久豊の勝利で8代当主は決まるが、総州家との抗争が続いた。応永29(1422)年に総州家が南九州から逃れることで両島津氏の争いは終了する。し […]

桂庵玄樹来鹿

朱子学の一派。薩南学派の祖である桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)は明(中国)で儒学を学び、文明10(1478)年に島津忠昌の招きに応じて薩摩国を訪れた。彼は儒学の書の注釈本『大学章句』を刊行し、四書に独自の訓点を施した。彼の […]