文化朋党事件で近思録派が処罰を受ける

重豪の跡を継いだ斉宣は「亀鶴問答集(かめつるもんどうしゅう)」を作り質実剛健(しつじつごうけん)と質素倹約(しっそけんやく)を旨とする訓辞を家臣らに提示する。災害や学問奨励による出費で莫大な負債を抱えていた藩の財政を立て […]

茂姫が11代将軍徳川家斉のもとに入輿

11代将軍徳川家斉御台所。父は重豪。安永5(1776)年一橋豊千代と婚約する。これは安永元(1772)年に死去した竹姫の遺命であった。豊千代が将軍後継者となると、2人の結婚に対し反対の意見が出る。しかし豊千代を養子に迎え […]

桜島、安永の大噴火

度重なるお手伝い普請や城下・藩邸の火災や風水害、安永8(1779)年の桜島の噴火は薩摩藩の財政を苦しくさせていった。琉球貿易や鉱山経営などは薩摩藩の財政源であったが、この莫大な負債は如何ともしがたかった。さらに島津重豪の […]

明時館(めいじかん・天文館)創設

島津重豪が建てた暦・天文学のための研究所。「天文館」とも言い、現在の天文館通りにあった。江戸幕府は独自で暦を作ることを禁止していたが、薩摩藩は源頼朝の時期から領内に暦を導入していたと主張し、「薩摩暦」という独自の暦を作り […]

造士館・演武館 創設

島津重豪が建てた学問所。安永2(1773)年に創設された。敷地面積は3,350坪、講堂の他、孔子をまつる宣成殿、外城士のために寄宿舎・学寮も設置されていた。京都から鹿児島藩を訪れた橘南渓(たちばななんけい)は「広大にして […]

木曽三川治水工事完成

薩摩藩で最も著名なお手伝い普請は木曽三川の治水工事である。木曽三川とは木曽・揖斐・長良(きそ・いび・ながら)の3川を指し、下流域では入り組んだ流域のため度々水害が生じていた。そのため幕府は宝暦3(1753)年に薩摩藩に普 […]