時雨の旗

「ドリフターズ原画展」に寄せて

2020年9月後半から仙巌園内御殿にて、漫画『ドリフターズ』の原画展がはじまりました。

 こちらの作品は、島津豊久(以下豊久)を主人公に、織田信長や那須与一らとともに異世界を駆ける、というファンタジー作品です。

 「こちらの作品とからめた歳時記を書いてほしい」というリクエストを受けて、私も全巻拝読致しました。なるほど、アニメ化も大成功だったと聞いていた通り、とても面白い作品でした。ただ、こちらの詳しい内容については、原画展の担当者がコラムを書くということで、私は違った視点を探さなくてはなりませんでした。そこで、読んでいて「秀逸だなぁ」と感じていた、旗の場面活用について触れてみます。

 作中、明智光秀の後ろに並ぶ桔梗の旗。「進軍を開始せよ」のセリフの裏ではためく、黒王軍の旗。六巻の土方歳三の背後に翻る旗…いずれも、印象的に描かれています。漫画において、そして現実においても、旗は「目印」「気持ちの高揚」「メッセージを広く伝える」等さまざまな効果を発揮します。

尚古集成館には、複数の旗が収蔵されています。

 中でも有名なのは「時雨(しぐれ)の旗」でしょうか。天文十五年(1546)、島津家十五代貴久は、時雨の旗と源氏の旗印・白旗を作らせました。これは島津家重物(家宝)として、今も代々受け継がれています。島津貴久・義久・義弘が、薩摩と大隅、日向の三州を統一し、さらに九州統一を目指していた頃、これら時雨軍旗と白旗が陣頭に翻っていたのです。想像すると、ロマンがあります。

 なお時雨の旗は、正徳四年(1714)に二十一代吉貴、享保二年(1717)に二十二代継豊が、それぞれ一旒(りゅう)ずつ「写し」を作成しています。享保二年のものは、薩摩の御用絵師・木村探元(たんげん)によって描かれたものと伝わっていて、叢雲から雨が降り注ぐ様子が、力強く美しいものです。

 さて、なぜ島津家が時雨の旗と、源氏の白旗を大切にしたのでしょうか。これは、島津家に下記の説話が伝わるからです。

【源頼朝(みなもとのよりとも)と結ばれ、島津家初代忠久(以下忠久)を身ごもった丹後局(たんごのつぼね)は、正室である北条政子の嫉妬を恐れて西国へ逃れる途中、摂津(せっつ)国(現大阪府)住吉(すみよし)大社の境内で産気づき、「雨の降る中、狐火に守られて」忠久を生んだ】

これは、尚古集成館が収蔵する「島津氏正統系図」に記載されている、初代忠久の誕生説話です。

 忠久が源頼朝の庶子であるという説は学術的に否定されていますが、頼朝に重く用いられたことは間違いありません。こういったことから「鎌倉時代からの、源氏とのつながり」を示すものとして、白旗を用いたことも頷けます。また、雨については「雨の降る中、狐火に守られた」ことにあやかり、「めでたいことが起こる前兆」「はじまり」を意味するものとして大切にされてきました。

 現在でも、結婚式などお祝い事の日に雨がふると、鹿児島では「本日は、島津雨おめでとうございます」という言い方をするのは、このためです。

 この、吉祥の意味を持つ雨を、軍旗のデザインに用いるということに、歴代の心的強さを感じることも出来ます。

 雨というと、漫画の第一巻で、関ケ原の戦場から異世界に主人公・豊久が足を踏み入れる直前、強く雨が降っている描写があります。六巻まで幾度か読み返してみましたが、多分、この場面だけが雨天のようです。まさしく、勇壮な物語の「はじまり」にふさわしい、描かれ方ですね。

※時雨の旗、そして白旗は、ともに鹿児島県の文化財に指定されています。



【更新】2020年9月25日



小平田 史穂

小平田 史穂

尚古集成館学芸員
鹿児島大学法文学部卒業。
放送大学非常勤講師 等
南日本文学賞詩部門受賞。
鹿児島県文化芸術振興審議会委員

著作
『みんなの西郷さん』
『復刻版 炉辺南国記』尚古集成館、山形屋にて販売

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