明治時代、集成館・火薬製造所は軍の管理下となり、残りは会社経営となった。しかし、軍の管理下となった多くの施設は明治10(1877)年の西南戦争の際に破壊され、その他の事業も戦争の打撃から立ち直ることができずに廃止された。しかし、集成館事業の魂は日本各地に広まった。例えば長崎製鉄所・石川島の海軍造兵廠(ぞうへいしょう)には集成館の技術者や機械が導入され、海軍や造砲で日本をリードしたのは鹿児島出身者であった。紡績業に関しては、明治10年代に次々と紡績工場が建てられるが、鹿児島・堺の紡績所で務めた石河確太郎がその多くに関与し、薩摩藩の紡績技術者が技術指導にあたった。

これらの産業育成は近代日本の富国強兵・殖産興業(しょくさんこうぎょう)政策のもとで行われたが、それを推進した大久保利通は斉彬の薫陶を受けた薩摩藩士であった。人材と技術の育成をした薩摩藩は、近代国家の源流として日本の成長を支えたのである。