慶応元(1865)年、薩摩藩はイギリスへ使節・留学生を派遣した。使節はイギリスの紡績技術を薩摩へもたらすため、紡績機械の買付や技師の招聘の交渉を行った。翌年には技師が到着、彼らは技師館で生活する。さらに慶応3(1867)年には工場が完成し機械が据え付けられて日本初の近代的紡績工場、鹿児島紡績所が磯に竣工した。大坂で仕入れた原料の綿を200名余りが働いて綿糸・綿布を製造していた。  明治3(1870)年には和泉国堺(現、大阪府堺市)に堺紡績所が鹿児島紡績所の技術者を中心に造られる。明治5(1872)年には明治天皇が鹿児島紡績所を巡幸した。富岡製糸場をはじめ全国各地で紡績工場ができあがるのはそれから10年以上後の事である。これら紡績工場は、鹿児島や堺で技術を会得した技術者の存在なしではできなかった。