重豪の跡を継いだ斉宣は「亀鶴問答集(かめつるもんどうしゅう)」を作り質実剛健(しつじつごうけん)と質素倹約(しっそけんやく)を旨とする訓辞を家臣らに提示する。災害や学問奨励による出費で莫大な負債を抱えていた藩の財政を立て直すため樺山主税(かばやまちから)・秩父太郎らを登用する。樺山をはじめとする改革グループは参勤交代の延長など幕府の法を無視し強引な緊縮財政を唱える。しかし、重豪の開化政策を悉く改めたことから重豪の怒りを買い、文化5(1808)年、家老樺山以下の改革に関与していた人物は切腹・遠島に処せられ、翌年に斉宣も隠居することとなる。樺山らは朱子学の学問書『近思録』を学んでいたため、この事件は「近思録崩れ」と呼ばれる。また、「文化朋党崩れ」や「秩父崩れ」などとも称される。