度重なるお手伝い普請や城下・藩邸の火災や風水害、安永8(1779)年の桜島の噴火は薩摩藩の財政を苦しくさせていった。琉球貿易や鉱山経営などは薩摩藩の財政源であったが、この莫大な負債は如何ともしがたかった。さらに島津重豪の開化政策・学問奨励は巨額の出費となり、茂姫が徳川家斉の御台所となると、幕府や諸藩との交際費がかさむようになり、悪化の一途をたどるようになる。斉宣は財政再建に乗り出すも近思録崩れで挫折、重豪が直接財政改革を実行するも、低金利で資金が調達できなくなり、高金利の融資に頼らざるを得なくなり、瞬く間に負債が急増、文政12(1829)年には借金がついに500万両に達した。これは当時の平均産物料収入が14万両であることから、いかに莫大なものかうかがえる。