島津重豪が建てた学問所。安永2(1773)年に創設された。敷地面積は3,350坪、講堂の他、孔子をまつる宣成殿、外城士のために寄宿舎・学寮も設置されていた。京都から鹿児島藩を訪れた橘南渓(たちばななんけい)は「広大にして美麗なる事天下第一」と賞賛している。近思録崩れの影響で本来の人材育成とかけ離れた教育内容となり、これを嘆いた島津斉彬は「十か条の訓諭」を示し学問の本義を示して造士館の振興を図った。明治2(1869)年に漢学・国学・洋学に分割され、学館となる。さらには本学校と改称し、小学校を卒業した生徒たちを受け入れる学校となった。明治10(1877)年の西南戦争で灰燼に帰したと考えられる。