ほぼ九州全域を島津氏が支配するようになった際、豊後国(現、大分)の大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求めた。天正13(1585)年に四国の長曽我部元親(ちょうそかべもとちか)を降伏させた秀吉は、関白の権限を用いて島津氏に九州停戦令(惣無事令[そうぶじれい])を出す。しかし、島津氏は秀吉を「由来なき仁」としてこれを拒否した。
天正14(1586)年に豊臣軍先鋒として土佐国(現、高知)の長曽我部元親・信親(のぶちか)父子らが九州に上陸。これを島津義久の弟、家久が迎え撃ち大打撃を与えた(戸次川[へつぎがわ]の戦い)。この後、島津軍は宗麟を臼杵(うすき)城に追い詰めたが、天正15(1587)年、秀吉とその弟、豊臣秀長(ひでなが)が本格的に島津攻めを開始すると、徐々に島津軍は後退した。九州北部の領主たちが離反し、日向国根白坂(ねじろざか、現宮崎県木城町)にて豊臣軍との決戦に敗れると、島津軍は各地で降伏する。義久は剃髪し、川内の泰平寺にて秀吉に降伏した。これによって九州全域を支配していた島津家は薩摩・大隅両国と日向国諸県郡(もろかたぐん)のみの所領へと削減されることになった。