天正6(1578)年に日向国で島津氏と大友氏が争った戦い。日向国のほぼ全てを手中に収めた島津氏に対して大友氏は警戒を強め、大友義統(よしむね)が大軍を率いて日向国へ侵攻した。当主の父、宗麟(そうりん)は熱心なキリシタンであり、日向国北部にキリスト教の理想郷を築こうと計画していた。そのため、侵略地の寺院が破却され、住民はもとより大友軍内部からも批難の声が挙がったという。大友軍は高城(現、宮崎県木城町)を包囲するが膠着(こうしゃく)状況となり、島津義久・義弘らの援軍と対峙した。大友軍は軍団内部がまとまらない状況のままで戦い、大敗北を喫した。高城から逃げる大友軍を島津軍は十数km離れた耳川まで追撃、大友軍に壊滅的なダメージを与えた。その報告を受けた宗麟も日向北部から逃亡した。多くの死亡者を出したこの戦い以降、大友氏は家臣団内の反乱などが相次ぎ、勢力を弱めることとなった。