忠治・忠隆の2人の兄を相次いで亡くした勝久は、領国支配のために有力庶家の1つ、伊作(現日置市)・多布施(現南さつま市)を拠点とする相州家島津忠良の協力を得ようとする。勝久は本家跡継ぎとして忠良の子虎寿丸(のちの貴久)を迎えるが、薩州家の島津実久が反発し、鹿児島へ攻め込むみ、貴久は鹿児島を追われた。勝久も家督を奪い返そうとしたため、本家の家督継承を巡って忠良・貴久と勝久、実久の三つ巴の争いが繰り広げられることとなった。

当初、実久は他の庶家を率いて忠良らを圧倒、鹿児島を手中に収める。忠良らは伊集院の一宇治城を攻め取り、鹿児島攻めの拠点とした。天文8(1539)年、忠良らは市来・紫原の戦いで実久を破り鹿児島から追い出す。以後、着実に支配領域を広げ、天文14(1545)年には貴久が一族庶家から守護として認められ、戦国大名島津氏としての第一歩を踏み出すのであった。