7代元久(奥州家)の死後、家督継承をめぐって元久の弟久豊と伊集院氏が対立を起こす。久豊の勝利で8代当主は決まるが、総州家との抗争が続いた。応永29(1422)年に総州家が南九州から逃れることで両島津氏の争いは終了する。しかし、子忠国の代に伊集院氏が入来院氏らとともに本家に反旗を翻す。薩州家の祖用久との争いも生じ、度重なる戦闘の末、忠国は領国支配を安定化させることに成功した。
15世紀末、島津立久の死去の後、家督継承を巡って薩州家と本家が再び対立する。薩州家を中心に多くの有力庶家を敵に回した島津忠昌は肝付氏ら国人の反乱も対処せねばならなかった。永正5(1508)年、忠昌は戦乱の世を憂いて清水城にて自刃する。跡を継いだ子どもたちも相次いで早世し、領国の動乱は増すばかりであった。