南北朝期以後、南九州は混乱を極めた。島津総州家・奥州家は足利尊氏の北朝につくも、肝付氏や谷山氏・伊集院氏などは後醍醐天皇の南朝方となって対立した。後には北朝が尊氏と弟直義(ただよし)の間で分かれさらに混迷を深める。尊氏派が一時南朝に降った時には島津本家も南朝に属している。また、南朝の征西将軍宮懐良親王が薩摩国谷山に下向してくると、南朝は勢力を強め、建徳2(応安4、1371)年にも島津氏は南朝に降った。
その後、北朝方に復し、九州探題今川貞世(了俊)とともに南朝方と戦うも、水島の変で了俊の背信行為に激怒して袂を分かつ。このため、薩摩国・大隅の両守護職は了俊によって一時奪われた。了俊との対立は、応永2(1395)年了俊が九州探題を罷免されるまで続いた。奥州家は大隅国のみならず鹿児島郡を基盤として徐々に薩摩国にも支配を及ぼしてくる。やがて総州家と奥州家は対立、総州家は従来の反総州家勢力と手を組み、奥州家と戦ったが敗北、奥州家が両国守護職を兼帯することとなる。