京都から鎌倉にくだり、御家人となった惟宗忠久は源頼朝から薩摩・大隅・日向三ヶ国の守護職と島津荘地頭職に任命された。日本最大の荘園、島津荘は薩摩・大隅・日向にまたがる広大な範囲であり、そこを治めるのが近衛家であったため、近衛家と関係の深い忠久が任命されたという。忠久は荘園の名を取り島津氏を名乗るようになる。
建仁3(1203)年に比企氏の乱で比企氏が滅亡すると、母の実家であることから連座し、三国守護職・島津荘地頭職を没収される。のちに薩摩国守護職と島津荘薩摩方地頭職は返されるものの、三国守護に返り咲くには長い年月が必要であった。