濃い青紫の花弁が5つに分かれ、葉がちりめんの布ように絞り状になっている朝顔

島津家の夏のすごし方

朝顔、花火、夏の飲み物



燦燦と輝く太陽と、陽光を反射する青い海が眩しい、鹿児島の夏。
この暑い季節を、島津家の当主たちはどのようにすごしていたのでしょうか。



朝顔の栽培

薩摩藩の近代化事業で有名な、幕末の名君・島津斉彬は、さまざまな学問や武芸を幼少時から修めていましたが、同時にたくさんの趣味を持っていました。和歌、茶道、絵画、囲碁、将棋などと並んで、少し珍しいのが朝顔の栽培です。



家臣の記録によると、斉彬は多くの朝顔を栽培し、その変化を楽しんでいたようです。
江戸時代、日本各地で園芸が流行していました。とりわけ「潜性(劣性)」遺伝子のもつ色・形が出やすい朝顔を交配して、新たな模様のものを生み出すことに力が注がれました。そうして生まれるのが変化朝顔です。



変化朝顔は個々の名前が、青縮緬立田唐草雨龍葉紫車咲(濃い青紫の花弁が5つに分かれ、葉がちりめんの布ように絞り状になっているもの)や青斑入桔梗渦葉紅吹掛絞(五角形の花弁に紅色の模様が入り、葉に白い筋が入っているもの)など、その美しい姿を表しています。名前からも、雅やかな景色が浮かびますね。

島津家では、斉彬以外にも玉里島津家の島津忠済や、30代忠重の四男・斉徳などが変化朝顔の栽培に取り組んでいました。 植物ですので、絶対に変わったものが咲くとは限りません。しかし、その奇跡的な出会いも楽しんでいたのでしょう。



花火

29代忠義は花火を自作していました。彼の息子・忠重がのこした『炉辺南国記』には、このように記されています。



 当時東京では花火師に玉屋と鍵屋とがあったらしく、花火を賞するときのかけ声に当時は「玉やー」「鍵やー」と、いう風のことがあったとのことである。
父はよくこの鍵屋の方から花火を買入れていた。この買入れる分は見本にするのであって、それが鹿児島に届くと、直ぐに切開いて内部を調べ、その通りのものを作るのであるから、よく出来る(中略)。
磯邸の花火大会は、直ぐ前の海上に当時石炭船と称していた二本マストの帆船を雇入れて碇泊させ、その甲板上から打上げていた。そして私たち見物する方では邸内本屋直前の大きな石燈籠のところに桟敷を作り、そこから親類の人たちも皆来て見て貰うものであった。そして何分にも時間が長いので、その間に例のおななつ(=おやつ)も出るし、昼の部と夜の部の間には、書院の方で食事も出たことはもちろんある。 (『炉辺南国記』より抜粋)



忠重にとって、父が楽しそうに花火を作る姿、錦江湾に浮かぶ帆船、そこから打ちあがる花火を親戚と見たことは、幼少期の美しい思い出となっているようです。





夏の飲み物

忠重が好んだ夏の味覚に、橙皮油を滴下した砂糖水がありました。



 水に和して飲むには橙皮油にかぎる。昔は夏季に氷水もなく、もちろんアイスクリームなどもぜんぜんなかった時代に、清水や冷たい井戸水に滴下して、砂糖を入れて飲むのに適していたのである。(『炉辺南国記』より抜粋)



橙皮油とは、温州ミカンやダイダイなどの柑橘類の果皮に含まれている油を精製したものです。砂糖水にほんの数滴入れただけですので、味はほとんど砂糖の甘さだけです。
それでも、氷菓のない時代に仙巌園内で作った橙皮油と冷たい水が、レモネードやオレンジジュースのような爽やかさを運んだことでしょう。

まだまだ暑い日が続きます。 体調にお気を付けて、すてきな夏をお過ごしください。



【投稿】 2022年8月04日



小平田 史穂

小平田 史穂

尚古集成館学芸員
鹿児島大学法文学部卒業。
放送大学非常勤講師 等
南日本文学賞詩部門受賞。
鹿児島県文化芸術振興審議会委員

著作
『みんなの西郷さん』
『復刻版 炉辺南国記』尚古集成館、山形屋にて販売

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