源頼朝落胤説
(みなもとのよりともらくいんせつ)
島津忠久には以下のような誕生伝説が伝えられている。丹後局が頼朝の寵愛(ちょうあい)を受けて子供を身ごもるも、これを知った頼朝の正室北条政子に妬まれたため鎌倉を逃れた。摂津国(現、大阪府)住吉大社までたどり着き、雨の降る夜に狐火に照らされて忠久を産んだ。現在、住吉大社の境内には忠久誕生石が存在し、島津家における稲荷信仰や雨を瑞兆とする慣わしはこの故事に由来するものである。
その後、元旦参拝のため住吉大社を訪れた摂政(せっしょう)近衛基通(このえもとみち)に救われ、丹後局はその家来の惟宗広言(ひろこと)のもとに嫁ぐことになった。このため忠久も惟宗を名乗ることになった。頼朝は誕生の知らせを受け「三郎」の名を与える。元暦2(1185)年に頼朝と初めて対面し、頼朝の家臣畠山重忠(しげただ)の一字を得て「忠久」と名乗る事になったという。
この伝説を背景として、八景釜や血吸が島津家に代々伝えられてきた。また、十字紋も頼朝から授かったものという説もある。



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