尚古集成館-今なお残る近代国家への息吹-

薩摩・島津家の歴史

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島津忠義

(しまづ ただよし) 天保11(1840)年~明治30(1896)年

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写真1
写真2
島津忠義銅像
墓:常安峯
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略歴

 島津家29代当主。実父は28代斉彬の弟久光。安政5(1858)年に叔父斉彬の遺言により跡を継ぐ。当初斉彬の政策に批判的であった祖父斉興が補佐したため、集成館事業の縮小・財政整理を進める。斉興死後は久光を後見役とし、大久保利通ら尊王攘夷派の突出を押さえ、小松帯刀を起用して藩内を結束させようとした。文久3(1863)年、薩英戦争で欧米の力を目の当たりにすると、集成館事業再興に力を注ぎ、軍事研究のための開成所を設立する。慶応元(1865)年に藩士をイギリスへ派遣させ、紡績機械等を購入したり、技師を招いたりするなどイギリスと密接な関係を結ぶ。また、慶応3(1867)年のパリ万博では幕府とは別に薩摩琉球国として出品、海外より高い評価を得た。  日本を近代国家に生まれ変わらせるため、慶応3(1867)年に討幕の密勅を受け大兵を率いて上洛、小御所会議に出席する。翌年からの戊辰戦争で薩摩藩兵は奮戦、翌年に版籍奉還(はんせきほうかん)を率先して行い、薩摩藩知事となる。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動で福昌寺が壊されると鶴嶺神社を建てた。明治4(1871)年の廃藩置県で藩知事の任を解かれる。明治10(1877)年の西南戦争では久光とともに桜島に逃れて中立を保つ。明治17(1884)年、公爵を授かり、明治23(1890)年には貴族院議員となる。翌年、ロシア皇太子ニコライ2世が来鹿した際に仙巌園で接待した。明治30(1907)年、58歳で薨去。